生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

入ったこともない大学の敷地内にある、高い建造物に想いを馳せる

 かなり無理になっている。

 

 いるだけで息苦しく思わない部屋を得た。過ごしやすくはなったのだ。もっと早くここに来られていたら、また違った現在があったのだろうな、と思う程度に。

そう、“もっと早ければ”。もう手遅れだった。私はほとんど全ての意欲を失い、近所にある(私とは無関係の)大学の高さを見て、あそこからなら即死出来るだろうな、入れるかな、行ったことないから分からないな、と考えるようになった。

 身体は動かせたり動かせなかったりする。特に寝起きは動かないことが多い。一生付き合っていかなければならない、という現実を再認識し、嫌気が差す。

 

 例えば、「死にたい」と検索すると、「私たちに相談してください」という具合に相談ダイヤルが表示される。同じことを言うと、周囲の人間はあからさまに引いた目で見てきて、腫れ物に触るように扱ってくる。

でも、相談ダイヤルは私の後遺症も頭のおかしさも、鬱病すらも解決してくれないのは知っている。ただ“傾聴”して、吐き出させてスッキリさせて、問題がなくなったように勘違いさせてお茶を濁すだけだ。「死にたい」を叶える方法を教えてくれないどころか、「死にたい」そのものを否定される。

自分の外の世界に「死にたい」を表明してもどうにもならない、どころか人間関係が悪化することすらある。

 まるで「死にたい」私が異常で、悪なのだと責められているような気分になる。

 

 そうじゃない。私は否定や同情を求めている訳ではない───いや、同情が全く欲しくないと言えば嘘になるが。

具体的な解決策を求めているのだ。

どうすれば身体が動く?

どうすれば人と上手く話せる?

どうすれば以前のように物を覚えられるようになる?

どうすれば金を稼げる?

どうすれば自然に笑える?

 

 もう何もかも手遅れなんだ。こういう疑問を、この歳になっても抱いている時点で、手の着けようがないほど手遅れなのだ。

 この先私が世界の標準線に追い付ける見込みはなく、ずっと追い付けないまま生きていくしかないのだ、と思うと無理になる。

 反生理的欲求を満たせないことへのストレスからか、視界に点がチラつき、瞼はしょっちゅうピクピクする。その度に、生きていたってしょうがない、と認識し直す。

5月10日(金)

 ド鬱の最中にある。

 

 数年ぶりに真面目に生きてるが、虚しい。多分、理由としては努力の変換効率が信じられないくらいに低下したことにあると思う。努力が報われないのだ。

 行きたいところ/観たい映画/やりたいことがあっても、出来なくなった。身体と頭が重く、だるく、常に二日酔いのような体調。出掛けるのに必要な金を稼ぎたくても働ける場所すらない。そもそも人と出掛けることなど一切ないため、出掛けなくて困るのは自分だけ。じゃあ出掛けなくていいか、となって、また出掛けられなかった、と、自己嫌悪に陥るのだ。公開・開催時期が限られているものに行けないまま時期が終わってしまうと、かなり落ち込む。行けなかった/行かなかったのは他ならぬ自分自身な癖に、落ち込むのだ。

 

 いつからか───多分倒れてからだとは思うが───私はそんな毎日を送るようになった。生きるだけで気分がどんどん落ち込んでいくようになり、寝転んでいると勝手に目から水分が出て行くようになった。

 こんなに辛いならさっさと死んでしまえばいいのに、と、何度も自殺を試みた。首吊りは駄目で、飛び込みも迫ってくる電車の頭に圧倒されて出来なくて、飛び降りは立ち入りが制限されている屋上が多くて出来なかった。ODする程の薬のストックもなく(多分医者がOD防止のために処方量を制限している)、毎日泣きながら生きることしか出来ない。

 私が生きているより、死んだ方が喜ぶ人間が多い気がする。というか前者はひとりもいないと思う。

 午前三時頃に目を覚ます度に、まだ死ねていない自分に嫌悪する。眠くても寝直せないために、時間になるまで思考の渦の中で耐えるしかない。

 

 何で自分はこんなにも無価値でつまらない人間なのだろうと考える。涙が溢れて止まらなくなる。この先生きることを考えられなくて、生きるための行動が出来ないでいる。生きるためにやらなければならないことを出来る気がしなくて、死ぬことしか考えられなくなる。

 

 推しに会った後、生きたいと思うのは、幻想だ。一時的に生きたさが0から1以上になることからくる、バグだ。その幻から覚めて、現実に向き合うと、その“生きたさ”は生きるのに必要な努力や鬱によって塗りつぶされてしまう。躁の後に鬱にたたき落とされるような感覚で、いつもよりもひどい鬱に襲われる。

 

 Twitterの使い方が変わった。知人のツイートを直視出来なくなり、知人のツイートから目を逸らしてツイートするようになった。知人が私のことなんか全く見ていない/認識していないということを分かりたくないから、それを分かっていながら分からないふりをして呟くのだ。

 

 

 吐きそうで吐けない気持ち悪さ。眩暈。頭痛に眼痛。生きているのがただただしんどい。

現実をぼかす

 今日も今日とて酒を飲む。

 

 

 酒に弱い自分は少量のアルコールで頭をぼやけさせることが出来るからちょうどいい。徒歩2分圏内で手に入る、安価な酩酊物質。

睡眠薬とは併用しないように気を付けている。かの借金玉氏でさえ、アルコールと睡眠薬との併用に依存し、ボロボロになった過去があるらしかったからだ。心の弱くない自分が迂闊に手を出していいものではない、と、そこには線引きをするようにしている。

 

 飲みながら、録画しておいたねほりんぱほりんホスト回を繰り返し観ていた。

私もこんな風に我を忘れて遊んでみたいな、と思いつつ、自分の弱さではその遊びの代償に耐えられないだろう、とも考えながら。私がそういう遊びに手を出すようになったら、イコール(現実逃避して)希死念慮に身を任せていると考えて構わないと思う。

 ホストに通う人々の話を聞いていて、共感した部分がある。

「どうして相手が自分に付き合ってくれているのかが本気で分からない」「ホストみたいに“お金を払っているから”付き合ってくれているのがハッキリしている方がまだ理解できる」

そう、それそれ、と思った。男女問わず、相手が自分に付き合ってくれている理由が理解できた試しがない。それなら、お金という目に見えて分かりやすい尺度があった方が理解できる。

 

 だからこそ、なのだと思う。

私は友達すらも分からなくなった。恋人や伴侶なんてもっと分からなくて、私はそれらをぼんやりと“友達の上位互換”のように考えている。だから、恋人/結婚さえ出来れば、友達がいないということをカバー出来るのではないか、と考えてしまう。

だけど多分、ここまで書いていて思ったけど、仮に恋人や伴侶が出来たとしても私は今と変わらず悩むのだと思う。「どうして自分と付き合ってくれているのか」をまた悩むのだと思う。

 私はきっといつまでも、「どうして相手は自分と付き合ってくれているのか」と悩み続けるのだろう。自分に価値が見いだせないまま、そんな無価値な自分に悩んだまま、苦しむのだと思う。

 風俗に行ってしまおうか、と考えた。ホストのように思考を停止してお金の関係だと割り切れる場所に。私にはお金がないから借金することになるだろう。だけどもしかしたら、そこでなら、救いが得られるのかもしれない、と。

 

 

 脇目もふらずのめり込める何かを探している。自分を犠牲に出来る何かを。

それは友達じゃ駄目だった。自分を犠牲にして友達と付き合うのは重すぎた。恋人も駄目だった。単純に、恋人が作れない、という理由で。当然伴侶も駄目だった。

 私は今、好きで江口を追っているけれど、どんなに追いかけたって江口には触れることすらかなわない。それならば、やっぱりホストに通い始めてしまおうか、という思考に至ってしまう。

友達と呼べた人のことについて、思い返すだけの余力が少し湧いてきた

 ようやく出来た友達だと思って、本来理解しておくべき“友達との距離感”を理解しないまま付き合って、結局駄目になった関係の話。

 

 

 メンヘラ.jpに逃避して、他人のキラキラした人生と自分のキラキラしていない現実との乖離からようやく目を背けることが出来てきた、と思う。そうしてようやく、冒頭のことについて感情的なことを極力排除して考える決心がついた。

 

 今でもそうだが、友達という関係性について理解できた試しがない。それでも、そんな自分であっても、この人は友達かもしれない、と考えることが出来るくらいの存在はいた。

過去形なのは、関係が断絶してしまって久しく、今となっては話しかけることすら不自然に感じられてしまう程であるからだ。

 一瞬だけでも友達かもしれないと思えた彼女のことについて、思い返してみようと思う。

 

 彼女とは、大学で出会った。

本来ならば出会うことすら出来なかったのではないか、と今では思うくらいに、私と彼女との間には、“頭の良さ”という観点において、非常に大きな格差があった。彼女はとても頭が良い人間で、思慮深かった。頭の悪い私とはまるっきり違う、そんな彼女に出会ったことが間違いだったのかもしれない。

今になって思い返してやっと、私と彼女との間に横たわっていた格差の存在に気付くことが出来ている。当時はそんなことを気にせず(気にならないように彼女が気を配っていたのかもしれないが)呑気に関わっていた。

 読む本や観るアニメ、好む曲等について、ここまで気が合う人間に出会ったことはない、と思った。好きなことについてここまで深く語れる存在は今まで見たことがない、とも。

 多分、私は彼女に依存していたのだと思う。関係が断絶した今になってもこうして未練がましく思い返している辺り、今でも未練たらたらなのかもしれない。

 まだ関係性が続いていた頃は、必ず月に1度、決まった場所に飲みに行っていた。そうして定期的に飲みに行っていたのは、彼女にとって自分が特別な存在であることを目に見える形で示したかったからだと思う。

今思えば、彼女を無理矢理付き合わせていただけだったのだろうが。私にとっての彼女が特別であったように、彼女にとっての私も同様に特別であってほしい、と願っていた。“友達”を神聖視するが故に、その関係性の正しい扱い方が分かっていなかったのだと思う。

 

 ある時、身体に障害を抱えたり何だりして、今なお続く憂鬱症を拗らせたことがある。まだ彼女と交流があった頃だ。

彼女は私に構わず───彼女にはそうする自由があるから当然のことだったが、私は勝手に傷付いていた───Twitterに向かって趣味を楽しんでいるツイートを投げかけ続けていた。ちょうどその頃私の心の調子がよくなかったこともあり、空リプ(空中リプライ)で彼女に八つ当たりするようになっていた。それに嫌気が差した彼女は私をミュートし、ミュートされたことを察した私もまた、彼女のことをミュートした。

 

 時間が経って、自分勝手なことだが、彼女との関係を取り戻したくなった。自分の犯した失態を謝罪して、やり直したくなった。本当に自分勝手な話だ。

 何カ月か振りに彼女にコンタクトを試みた。Twitterでは他の人に見られるから、と、紙の手紙を送った。この時代にありがたいことに、彼女もまた紙の手紙で返事をしてくれた。だけどそこに書いてあったことは大変に衝撃的な内容で、詳細を思い出せなくなった今になっても尚、その手紙が自分の精神を削る、ということだけは心に刻み込まれている。だから私は、それを一度読んだだけで二度と読み返すことはなかった。

 内容としては、“普通の人は普通に「悪いことだと理解していること」を意図的にやっているものだと私が誤解し、自分も同様に意図的にやった、ということに対する非難(もっともな意見だと思う)”が主だった。

返事を読み返した私は、恐る恐る慣れないLINEを使って彼女にメッセージを送った。幸いなことに、LINEをブロックされてはいなかったようで、常識的な時間の後に返信が返ってきた。

 こちらの内容としては、手紙よりももっと直截的に私を糾弾するものだったと思う───思う、としたのは、このLINEもまた見返す勇気が湧かない内容だったからである。

彼女は私と関係を続ける気はないこと、謝っても許す気はないことを私に告げた。至極真っ当な意見だと思うが、その二点を告げられた私は大変に衝撃を受けた。関係の修復を懇願した。

「分かりました、それではお互いにTwitterのフォロー・フォロワー関係を始め直すところから始めましょう」という彼女の他人行儀な言葉と共に、Twitter上での、形式的な関係が始まった。TLを追う気力がなくなり、まともに呟かなくなった今となっては、本当にデータ上のみの、形式的な関係性に過ぎなくなった。彼女が社会に出た時に、この関係は完全に切れるのだと思う。

 彼女と最後に会ったのがいつのことかすらももう思い出せないが、この先会うことがないという予感だけは微かにある。

私は誰かを誘う時に彼女を───昔そうしたように───誘う勇気はもう有していないし、彼女は私を“何かに誘うだけの価値がある人間”だとは見なしていないだろうと思う。何なら、存在を忘れられているかもしれない、とすら思っているくらいだ。

 

 

 私はやはりきっと、未だに彼女に執着している。人生ではじめて、唯一友達かもしれないと思わせてくれた彼女に。

 この記事が、その証拠だと思う。我ながらなんて未練がましいのだろう、と、書きながら思った程だ。

 

 

 

追記(16:51):メンがヘラった相談を彼女にしていたら、「そんな重い話を続けるなら関わりたくないです」と言われたことを思い出した。友達との距離感が分からない。

布団に寝転び、記事を読む日々

 何もやる気が起きなくて、ひたすらメンヘラ.jpを周回している。

 

 

 「風呂に入るのがめんどくさい」は自分を大切にできていないサイン - メンヘラ.jp http://menhera.jp/687

 この記事でも取り上げられているように、メンヘラ.jpでは「風呂に入れなくなるのは鬱病の兆し」のような言説が多く掲載されている。

実際、汚い話ではあるが、私も毎日風呂に入ることが出来なくなった。外に出る予定がない/身体がべたつかない限り、風呂に入る気になれなくなった。

 色んな理由が考えられるけど、主な理由としては、“親と顔を合わせたくないから”というものが挙げられると思う。風呂に入るためには当然、自分の部屋から出なければならない。それが休日だったり夜だったりすると、親とのエンカウント率が高まる。同居しているのだからエンカウントもくそもなかろう、という話ではあるが、実際に顔を合わせるか否かで私の精神衛生はかなり違ってくる。

親を視界に入れたくない/親の視界に入りたくないという願望はいつの間にか肥大化しており、私を自室に引きこもらせるようになった。

 特別なことがなければ、週に1度病院に行く以外の予定はない。そういう状況もあり、私はその“週に1度”に合わせて風呂に入るようになった。入院生活を通じて、“毎日風呂に入らない習慣”が身に付いてしまったのかもしれない。

 あとは、汚してもいいシーツを敷いた布団に寝転ぶだけ。そうして私の1日は終わる。

親が家にいる時は、感覚を遮断しようとして努めて目を閉じるようにしている。そのまま眠れるならそれでいいや、と。そうしていたら、昼夜なんてすぐにグチャグチャになった。

 

 

 自尊心なんてほとんど無に帰して、自分が人間でいられている気もしなくなった。私は人間じゃない、だから何もかも仕方がない、と思うようになった。

昼間から缶を開ける

 飲む理由/目的が変わり果ててしまった。

 

 

 用事がない時、近くのコンビニで酒とつまみを買って昼間からひとりで飲むようになった。

以前は人との親交を深める目的で嗜んでいたアルコールだったが、一緒に飲む人がひとりもいなくなった今、その理由/目的は変わった。

 

 嫌な現実から目を逸らし、頭に浮かんでくる暗い想像をぼやけさせるためにアルコールを使うようになった。堂々巡りする思考を強制的に停止させるためにアルコールで脳味噌にフィルターをかけるようになった。

 現実は、つらく悲しい。寒くて寂しい。生きるのをやめたくなる程に。

それでも実際にやめる勇気は湧かない。だから、脳味噌にアルコールをぶちまけるのだ。電気信号の伝達を阻害するのだ。

 

 何も上手くいかなくて、自分が何をしたいのかすら分からなくなって、現実を直視するのに大変な労力を要するようになった。

現実を直視できなくなって、概念的なことに目を向けるようになった。友達とは何なのか、愛とは何なのか、を考えるように。

 考えても考えても、私にはどちらも分からなかった。後者に至っては、愛について書かれた書籍を読んでも尚理解できなかった。

 愛とは理由なく注がれる物らしい。見返りなく注がれるべき物らしい。でも、そうであるならば、“愛を注ぐ相手を選ぶこと”自体が愛という概念に反するのではないかと思った。

だって、愛するのに理由があってはいけないのなら、見返りを求めてはいけないのなら、誰を愛しても同じでなければならないじゃないか。その愛は人間の手に負える物ではなく、神の領域に及ぶ物ではないだろうか、と。

 

 

 私たち人間は、小さい。社会という肉体の中で、一個の細胞としてしか在れない存在だ。神の如き利他的な愛を理解するには、あまりにちっぽけ。

 今の私たちに実現可能な愛とは、利己的な愛に過ぎないのではないだろうか。相手と一緒にいたいから愛する、という。

 私にはそんな愛を獲得できる気には到底なれず、またアルコールで頭をぼやけさせるのだ。

「そんなに概念的なことから悩んでいるの?」

 私には未だに、友達が分からない。友達どころか、何も分かっていない。

 

 

 定期的にカウンセリングを受けるようになった。効果があるかは分からないけれど、何もしない/誰とも話さないよりマシだと思うから続けている。

 

 今日のカウンセリングで、カウンセラーの方に言おうと決めていたことがあった。

「もう頑張りたくないです」

私はそう言おう、言ってしまおうと思ってカウンセリングに臨んだ。

だけど、カウンセラーの方が主導権を握るカウンセリングの中でそう口を挟めるような流れはどこにもなくて。とうとうカウンセラーの方に、

「あなたは頑張りすぎなのよ」

と言われてしまった。言われたかった/求めていたはずの言葉。なのに、先手を打たれただけで私はしどろもどろになってしまって、咄嗟に

「いや、私は頑張っていないです。何も」

と答えた。改めて言葉として「頑張ってる」と言われると、それはそれで違和感があるように思えたからだ。

 本当に頑張っているならば、もっと色々上手く行っているはずだ。頑張っていないから、変なところで躓いているんだ、と。自分の報われなさ/無能さの言い訳をそこに求めていたんだと思う。

ああ、頑張っていないからこんなに“出来ない”のか、と、自分を納得させるために。そして、“きちんと”頑張りさえすれば、万事上手くいくはずなんだ、と。自分には理解できてない、“正規の頑張り”のようなものに、救いを求めていた。

 

 自分が頑張った、と感じたことは、大体親から「頑張っていない」と一蹴され続けてきた。だから、私にとっての“頑張り”は他人から見たら頑張りでも何でもなくて、それを認めてほしいと思うのは甘えなのだとしか思えなかった。

 そうしている内、私はどこからならば「頑張った」と言えるのか、すっかり分からなくなってしまった。どんなに頑張っても、(これでも他人からしたらまだ“頑張っていない”なんだろうな)と思うようになった。

 

 そうして今日ようやく言われた、「あなたは頑張っている」という言葉は、そんなに簡単にかけてもらえる言葉なのか、と思って、目の前の人が嘘を吐いているんじゃないか、お世辞を言っているのではないか、とも思えた。

だって、こんなんで「頑張っている」なら、今まで私はどれだけ頑張ってきたことになるのだろう。今までのが頑張りだとするならば、今の自分がこんなに生きづらくてたまらないのは何故なんだろう。これから先、どうすれば私は生きづらさから逃げ出せるのだろう。不思議で仕方なかった。何も分からなくなった。

 

 

 少し考えていることを話しただけで、

「そんなに先のことまで考えているなんてすごいじゃない」

と感心された。

上手く生きられないから、せめてシミュレーションだけはしておかなければならない、と考えていただけで、特別なことのようには感じていなかった。しかも、それをしても尚上手く生きられていない自分を省みて、そのシミュレーションすらも不十分だと考えていただけに、その言葉を素直に受け取ることは出来なかった。

 

 友達についての問いに対して、

「“友達”が分からないんです」

と答えた。「どういうのが友達なのか、分からない」と。

カウンセラーの方は

「そんなに概念的なことから悩んでいるの?」

と聞いてきたが、私にとってはその概念を理解するのが到底不可能なことのように思えてならなかったのだ。

 色々な例を挙げた。

「自分としては相手のことを友達だと思っているけれど、相手からしたら自分は友達でも何でもないかもしれない、と思うと分からなくなって」「相手に自分は付き合ってもらっている/相手を付き合わせてしまっているだけとしか思えなくて」

とも言った。

カウンセラーの方はそれらを聞いて、

「それって、友達じゃないの?」

と返してきた。

 だけど私にはそうは思えなかった。自分の本音や本心を明かし合える人が、カウンセラーの方が言うところの“友達”概念の中にはひとりもいなかったからだ。

 私は、余計に“友達”が分からなくなった。

 

 

 私は友達でいたいと思う相手から、色んなものをもらった。私は相手と継続して友達でいたいと思うが故に、それに何かお返しをしなくてはならない、という気持ちに苛まれた。じゃなきゃ、無価値で面白くも何ともない私なんて、容易に切り捨てられる、と。

 だから私は、目に見える形で贈り物をするようになった。悪く言えば友達料のようなものだった。だけど、それを渡すことでようやく、私は相手に対する引け目から解放されていた。これで、友達でいられるんだ、とも思った。

 世間一般からすると歪なのだろう。それでも私には、そういう友達の在り方しか理解することが出来なかったのだ。