生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

何も楽しくない

 ずっとずっと、頭の中に「もう嫌だ」が響いている。

 

 

 好きな人たちとは頻繁に関わろうとするがために、相手に私の頭のおかしさを悟られて、嫌いになられるか、嫌いの先にある“どうでもいい”にカテゴライズされる。

 一方で、嫌いかどうでもいい人たちからは、何故か好かれたり懐かれたりする傾向にある。私があまり自分から関わろうとはしないからだろうか。

 この二つの特性が、今もなお私を苦しめ続けている。

 

 風呂で髪の毛を洗っている時に、失ったコミュニティーのことを思い出すことが多い。

もしも自分がもっと早く自身の発達障害について気が付いていれば、治療をして“普通の人”らしく振る舞って、好きな人たちとの関係を失う羽目にならなかったかもしれない、と思いながら泡を立てるのが日課になりつつある。

 

 しかし、自分に全く自覚がなかったという訳でもないのだ。それまで生きてきて、生きづらさ/自身の異常性に、薄々感づいていた。それが病気だとまでは思わなくとも、なんとなく怪しんではいたのだ。

 だから、ある1人の、当時最も信頼を置けて、最も好きだった友人に、こっそりと告白した。

「私、頭がおかしいんだ」と。

 相手がどう受け取るかは分からないけど、その相手のことが好きだったが故に、正直に打ち明けねばなるまい、という使命感に駆られた。まぁ、その言葉をある種の免罪符にしたい気持ちが全くなかった、と言えば嘘になる。

 だけど、結局相手がどう受け取ったかは分からなかった上、今となってはもう交友関係もほぼ断絶している。

 

 意識して相手を大事に扱おうと心掛けてもそんな結末に至ったのだ、私が好きな人からも同様に好かれることなどありえないのだろう。

 

 私の中にいる、真面目ぶろうとする奴が言う。

「もしかしたら好きな人たちも同様に好いてくれているかもしれないのに、自分からそうやって決めつけるのは相手に失礼だ」

対して、最近の私の中で大部分を占有する奴が言う。

「そんな物好きがいることを期待して、今までどれだけ自分が勝手に傷付いてきたか忘れたのか」

 そう、そんな物好きは、いない。

何故ならば、私が私である限り、自分が好きな相手に対しては過剰に接しすぎ、やらかすことしか出来ないからだ。

 

 

 もう嫌だ。誰も好きになりたくない。

勝手に期待して、勝手に傷付きたくない。

これ以上、好きな人を離したくない。

自分で自分が止められなくて、怖い

 普通の人になりたくてたまらない。

 

 

 だけど、普通の人になるためには何かが足りない。何が足りないのかは自分でも分からないけど、何かが足りない気がしてしまう。

 そしてその、“何か”さえ埋められれば、私は普通の人になれるように思うのだ。

 

 私の家は貧乏で、文化的な趣味に対する投資は随分と制限されながら育ってきた。

アルバイトをはじめて自分の懐にお金が入ってきてからようやく、人間らしい趣味にお金を投じることが出来るようになった。それからの人生はそれまでと比べ物にならないぐらいに楽しくて、たまらなかった。

 お金をかければこの胸に居座る欠乏を埋められる、と思い始めるのに、さほど時間はかからなかった。

 

 趣味にお金をかけるようになった。人にお金をかけるようになった。

その生き方が染み付いて、その生き方でないと欠乏感を埋められなくなった頃には、全てが手遅れになっていた。

 

 収入はない。アルバイトも今となっては病気のせいで出来ない。貯蓄を崩す毎日。

このままではいけない、と理性は告げる。だけど本能が、この胸の隙間を埋めろ、と囁いてくる。

隙間を埋められないことに、引け目や劣等感を感じるようになってきた。

 

 結果、どうなったか。

私は普通の人になりたくて、胸の隙間を埋めたくて、普通の人になる/人から馬鹿にされないためにお金を使うようになった。

誰も馬鹿にしない、数少ない知人にそんな性格の悪い奴はいない、と、自分に言い聞かせ続けている。

それなのに、他でもないこの私の親が、私を馬鹿にし続ける。顔を合わせる度に、口を開く度に、あいつは私を馬鹿にする。

そのせいで、“馬鹿にされたくない気持ち”がどんどんどんどん膨らんで、手が着けられないようになっていった。

 

 

 結局、私は親から逃れたくても逃れられなくて、逃れるためにお金を使っても、残弾に限りがあるせいで効果的なことは何もできない。

そんな毎日が、どんどん追い詰められていくのが分かる日々が、苦しくて苦しくて仕方がない。

生き方の話

 私は、自分が嫌う生き方をしているのを自覚していながら、やめられないでいる。

 

 

 あるツイートを見て思ったことがある。

“自分に素直に生きて嫌いな人に嫌われる(その代わり好きな人が好いてくれる)か、

無難に生きて誰にも嫌われない(その代わり誰にも好かれない)かだったら、どっちを選ぶ?(要約、うろ覚え)”みたいなアンケートツイートだった。

 私は前者のように生きたいと思っている。だけど、最近後者みたいな生き方に引き寄せられてしまっているな、とも思う。何故か。

 

 嫌われるのはそんなに怖くない。私も私のこと嫌いだから。

問題は、“嫌な人から嫌われるようなことをしたとして、好いてもらいたい人から好いてもらえるのか?”ということである。

 私の中で出た答えは、「否」だ。

何だろう、私を嫌う人の気持ちは分かるけど、私を好く人の気持ちが分からないんだな。うん。

だから、多分最近の私は、“嫌いな人に嫌われながらも好きな人に好いてもらえる程思い切った行動”をとれなくなったんだと思う。

冒険する勇気/体力がなくなったんだと思う。

 

 

 こんな人生/生き方、全然楽しくないのに、そう生きるのをさっさとやめたいのに、人生も生き方もやめられない自分に嫌気が差す。

前に買っておいた紙の本を読み始めた

 身体が麻痺してると紙の本を読みにくく感じる。

 

 風呂上がり、バスタオルを濡れた髪に被せながら本を読んでいた。

そこに書かれていた、本筋ではない情報に目を奪われてから、バスタオルが頭に被さっていることもすっかり忘れたまま本を読み進めていた。

 

 科学についての本だった。

だけど、友のことも記されていた。私はその、“科学者にとっての友”について、興味を抱いた。思考を奪われた。

その記述を見てからこれを書いている今もずっと、私は友についての思考が止まらないでいる。

 

 何度も書いていることだけど、私は友人という関係性についての理解が乏しい。全然理解できていないといっても過言では無かろう。

 目に見えない通貨が流通している、“友人関係”というものが分からない。分からない癖に、どうしてか憧憬してしまうのだ。

 私には、“目に見えない通貨”を見ることが出来ない。そんなものがある、と言われても、裸の王様にでもなった気分になる。

 だから、私は友人(と自分が勝手に思った人)との間の関係を持続させるための通貨として、“目に見える通貨”しか使えないでいたし、今でも使えないでいる。

私なんかがどうして彼(女)に楽しませてもらっているのだろう、と、引け目に感じてしまう。何かこちらからも返さねば、と思う。

だけど、私は“目に見えない通貨”を使えない。“目に見える通貨”でしかお返しを出来ない。

 それが、私が異常───これは最近ようやく自覚できた異常性だが───なまでに人に贈り物や金銭の譲渡をする理由である。

分かりやすい言い回しで言うならば、「友達料」のようなものを、相手に支払わなければならないような義務感が、私を駆り立て続けている。

 そんなことを続けていたら、友達がいなくなっていた。

多分“目に見える通貨”では賄いきれなかったんだろう。“目に見えない通貨”で支払うべき場面が多々あったのだろう。

だけど私にはやっぱりそれが見えなくて、いつまで経っても支払えない。そうして友人を失っていくのが、申し訳なくて、心苦しい。

 

 

 薬を飲めば治るような病気なのだろうか。それとも、不治の病なのだろうか。

前者なら、あまり高くない薬だといいなぁ、私は貧乏だから。

後者だったら、しんどいなぁ。

おはなし6話

 こんなことになるなんて、ついこの間まで楽器を弾いていた自分からは想像出来なかったろう。

私が私を紛失する、だなんて。周囲からどれだけ鈍臭いと言われても、ここまでとは思わなかった。

 

 見渡す限り訳が分からない物がごちゃごちゃになっているのに、ここはさやけき空気が支配していた。

鼻から胸いっぱいに空気を吸い込んでから吐いてみると、吐いた空気が身体の中の穢れをさらっていくように感じられる。肺があるのかすら確かめられないけれど、そんな感覚だけは確かにここにあった。

 

 でも、どこから探せばいいのか、全く見当が付かない。

とりあえず、棘を1本1本辿っていくことに決めた。想像するだけで、気が遠くなりそうだ。だけど、時間の感覚がちっともないから、探すのに時間を使うことに抵抗を感じないところはいいな、と思った。

“時間”なんていう、普通の世界の決まりごとがここに適用されるのかも分からないのに、私は、自分が未だに元いた場所の常識で物を考えていることをおかしく思った。やっぱり頭に染み着いた常識はちょっとやそっとでは揺らがないみたいだ。

 

 そんなことを考えながら、棘の柱群の間を縫って進む。1本、2本、3本……数えてないと、私を探すどころか自分を見失いそうになる気がして、私は棘を辿りながら本数を数えていた。

 ありがたいことに、目測で数えた全体の本数から予測していたよりもずいぶん早く、数えはじめてから853本目の柱の、内側から3列目を辿っていた時、私の探検は終わった。

 そこから生えた塊に私が座っているのが見えてから、ああ、あれは椅子だったのか、と、呑気なことを考える余裕すら湧いてきた。平べったい板状の何かたちも、意味があるのかもしれない。だけど、今はそれよりもやるべきことがある。

 もしかしたら、こうして動ける今ならば、向こうの私に合流出来るかもしれない。

そんな希望を抱きながら、私は一直線に座っている私に向かって飛んでいく。早く、早く、と、私の中にいる誰かが急かしている。そうやって出来るだけ早く私に向かって飛んでいくと、ぐんぐん私が近付いてきた。さっきよりも近くまで寄ることが出来ている。これならもしかするかもしれない。

ぐんぐん、ぐんぐんと近付いていき、私と私の間が3mくらいになって、これはいける、と思った時───

 

 ───べち、と透明な壁に顔が叩きつけられた。不思議なことに物理的な痛みはなかったけれど、これ以上は進めないことが分かって、全然動けなかった時よりも心が痛んだ。

 いけると思ったのにな。

 

 さっきよりも近くにいるのに、向こうの私は相変わらずこちらの私のことが見えていないようだった。

椅子に座って、板状の群に向かい合って、何かをしている。群に属するひとつの板に、文字が羅列されているのが見える。あれは私の常識にあるところで言う、モニターのような物なのかもしれない。

 向こうに認識されていないことにもがっくりきたけれど、ひとつ思ったことがあった。

 やはり、私のすべきことは先程と変わらないのだ。そんな気がしてならなかった。

社会に適合したいだけの人生だった

 誰も私を救わないことなんて最初から分かってた。

 

 

 だから努力した。自分で自分を救うために脇目もふらず努力した。

“努力に勝る天才なし”という、中学の頃被っていた手拭いに書かれていたスローガンを信じて、努力し続けた。

 遊び呆ける知り合いを、馬鹿にしてくる親たちを、いつか絶対見返してやろうと思っていた。だから部活も勉強も、資格取得もサークルも、全部全部全力を注いできた。

やれる限りのことは全部やってきた。

 その結果がこの現状だ。

発達障害と診断され、物は覚えられなくなり、身体は半分駄目になって、知り合いはおぞましい物を見るような目で私に接するようになり、友人はいなくなった。

友人の作り方も、何をもって友人と呼ぶのかすらも、分からなくなった。

 

 薬を飲んで明かりを消し、眠りに就こうとする夜、眠れるようになるまでの間の、空調と親の雑音に耐える時間が嫌だ。こんなに欠点だらけの私を晒し者にしようとする、うるさい暗闇が嫌だ。

 

 毎日が生きづらい。

努力が全て水泡に帰す体質の自分の身体を引きずりながら生きるのが、しんどくてしんどくて仕方がない。

 早く楽にして欲しい。

もう幸せになりたいとか、普通になりたいとか、贅沢は言わないから、せめて楽にして欲しい。

今私が願うのは、ただそれだけだ。

おはなし5話

 私が次に目を開けた時に見たものは、棘皮動物のように表面から壁に向けて棘を伸ばし、刺さった所に錨を下ろした巨大なガラス球と。それに覆われた、外殻よりもひと回りかふた回り程小さい、灰色の球が浮かんでいる光景だった。

 地球じゃない、と、直感的に思った。だけど、その直感が合ってるかどうかなんて確かめる術はどこにもなかった。

とりあえず、私は自身がまだ重力に逆らったままの状態だったので、もうひとりの私を探した方が良いような気がした。

 改めて、今いる場所から辺りを見回してみたものの、見覚えがあるような/知識にあるような光景はどこにもなかった。

外殻が放つ棘からは、一定の間隔毎にいくつかの薄い板状の物が群になって生えていて、その群に対して1つずつ、立方体やら直方体やら、多面体やら棒やら何やらの、用途の読み取れない塊が結び付けられて浮かんでいるのが見えた。

 私がここから見る限りにおいて、重力に従っているものはひとつもないようだ。

もしかしたら、今の私はつい先ほどまで経験していたように、自分の肉体と分離した状態ではないのかもしれない。ただただこの場所の理に従って、ぷかぷかと浮かんでいるだけなのかもしれない。

 そうだ、手を、足を、身体を見てみよう。さっきまでの感覚が地続きに残っていたから試さなかったけど、今はさっきまでとは違って、あるべき物があるべき場所にあるのではないだろうか?

そう思って手足を動かそうとしてみた。

自分の手足が動いている様を見ようと、視線を身体があるはずの方へ向けながら、手足にぐっ、ぐっ、と力を込めてみた。手足が動いているような感覚が微かに、だが確かに、ある。上手く行けば、視界に手足が入るはず。

にもかかわらず、視界にはちらりとも手足は入ってこなくて、見慣れぬ光景が広がっているだけだった。

 ならば、と、今いる場所から動いてみようと思った。

さっきは天井に背中を掴まれたようで離れることが出来なかったけど、今視線を辿って見た限りにおいて、天井は私よりも遥か上に存在するようだ。少なくとも、今の私の背中は天井には掴まれてはいないようだった。

今ならどこへでも行けるかもしれない。ちょっとだけ、試してみよう。

前後左右、上下斜め、ぐるりと旋回。自分の座標を動かすように念じてみると、手足を動かそうとしてみた時よりも敏感に身体は反応して動いてくれた。

 何も分からない/思い通りにならない状況で、ただそれだけのことに少し涙が出そうになった。

“自分が思い通りにすることが出来る何か”がある、ということが、ここまで精神を安定させてくれるなんて知らなかった。

 

 しばらく自分が動ける喜びに浸った後、今すべきことを思い出した。

そうだ、私は向かい側にいた私を探さなければならない。

でも、動けることが分かった今となって、それはあまり困難なことには思わなかった。今の私なら、もうひとりの私をすぐに見つけられるような気がしている。