日記

 電話が鳴っている。

 いつだって体が痛くて、重たくて、息が苦しくて、起き上がることすらままならなくて。
 特定の物しか面白がれなくて、でもその面白さを自分が見下してる奴らには決して理解されたくなくて。お前らなんかに分かられたくなくって。

 

 自分が憂鬱に沈みがちな体質なのは心得ている。その上で、私のように沈まなくても済んでいる奴らのことが、何も考えず気楽に人生を楽しんでいるような奴らのことが、あまりこの言葉は使いたくないけれど───嫌いだ。

 

 なんて愚かで、単純で、暴力的なんだろう。攻撃的な善。自己中心的な善。

弱者の気持ちを分かった気でいる傲慢さ、自らの正義を信じきれる面の皮の厚さ。

 

 電話が鳴っている。

 呪いが私の体を蝕んでいく。手足を、脳味噌を、ジャンクにしていく。昨日よりずっとひどい今日があの夏から毎日続いている。

 今の私は、世間一般に言う(小さな)幸せを手に入れたと言える状態かもしれない。だけど私は全く幸せな気分にはならなくて、そのことに後ろめたさを感じているくらいで。

 

 つまらない、つまらない。誰かが、何かを面白いと思ってこちらに発信しているようだ。面白がれるポイントがどこにあるかも理解は出来る。だけど、つまらない。部屋に転がっているスコッチを舐めている方が幾分マシだってくらい、すべてがつまらない。

 

 薬を飲んでも景色は変わらない。趣味の悪い社会がグルグルと回っているだけだ。

電話が鳴っている。

 

 私の部屋に固定電話を引いた覚えはないのだけれど。

電話が鳴っている。

□□、□□□□?□

「結局、虚無やん?て」

師匠の言葉を聞いたからかもしれない。だけど私も前々から、そんな風に思っていたような気がする。

 

 歳を重ねてくる中で色んなことを学んだ。言語化できること、できないこと。形のあるもの、ないもの。

掘れば掘るほど拡張していく未到達領域を目にして思った、あれ?これって、終わり、なくない?と。

ふう、と、一息つける場所なんて、どこにもないんじゃない?と。

 あれ?意味、なくない?

 

 キャッシュレスの波に押されつつある現金。形のある貨幣。価値の代弁者。私はそれをくしゃっと掴んで(あるいは画面に映し出して)ほかの価値と交換する。

 うん。だけど、交換したものにさえ価値/意味なんてなくない?

 

 何のために生きなきゃいけないのだろう、と。

私でないと出来ないこと、なんてのはどこにもない。私がいなくてもその穴は勝手に埋まるだろう。私の換えはいるらしい。上司から聞いた。

 世界にいるもう二人の私。残機。

 なら、私すらもいなくてよくない?

 

 社会の布にくるまれて、口が利けなくなりそうだ。

社会に蔓延するニュースピークたち。何も言ってない笑顔たち。

そこには何にも意味などなくて。みんな意味を生じさせないようにしているようにすら思う。意味の擦り付けあい。無意味の強要。意味恐怖症。

 社会性とは、言葉を減らす能力なのだと気が付いた。

言葉を尽くせと誰かが言った。だけどそれは、自分の不理解を相手の言葉が足りないせいにしたいだけのことだった。

みんな言葉なんて使いたくないように思える。言葉を使うと目を付けられる、とでも言わんばかりに。誰の目を気にしてるのかは私には分からないけれど。

 

 日々が虚無の内に過ぎていく。やりたかったことすら虚無の穴に落ちていって、もうじき見えなくなりそうだ。

人の役に立つ?それこそ意味がない。人の役に立っている感覚すらない。意味も実感もないのなら、何もないのと同じじゃない?

 

 社会。私にとって、おままごとと同じくらいの意味と重みしかないことば。茶番、茶番、茶番!どこへ行っても茶番ばかり。意味のない行為!品のない音!音!音!

 

 疑心暗鬼が蔓延している。誰も彼もが被害者面で、罪無き誰かを糾弾する。あるいはスーツに寄せ書きをして、生贄を捧げるようなことをする。

 みんながみんな、「(少なくとも)自分のせいじゃない」と叫んでいた。

陰謀論に踊らされる人々。自分の発言に責任を持たない人々───ハナから持てないのかも知れないけれど。

 

「立派な仕事やん」

でもほら、結局意味なんてなくないですか?

「まあ結局、」

はい。

「虚無やん?て」

世界はそんなに都合良くない

 実際のところ、前よりは良くなっているのだ。何もかも。

 

 その上で、私は絶望の濁流に呑み込まれただけの話で。

 前よりは何もかもが良くなっていて、前よりは未来に対する投資の利回りだって良くなっている。

だけど、それだけ。それだけだ。

 

 人生をこれ以上上向きにするために必要なリソースが、余地が、もう今の私にはなくって、つまりは「打つ手なし」という訳だ。

 

 想像しうる、ポジティブなルートの全てに黄色いテープが張り巡らされていて、その先に進めなくなっている。

曖昧なのが嫌いで、拒否反応を起こしてしまう体質から白黒はっきりつけてきた私の視界には、曖昧なままの可能性はどこにもない。

 どうせ駄目なら、その時になって駄目だと分かって絶望するよりは、あらかじめ駄目だと知って期待しないでいた方がダメージが少なくて済む。

 私は、想像しうる絶望を心臓がびっくりしないようにと先取りし続けたせいで、現在価値に翻訳した絶望を、他でもないこの今、まとめて背負う羽目になっている。

 勝手に期待して、勝手に裏切られたことで傷を負うことの責任からすら私は逃れようとしている。

だから、絶望をあらかじめ予想しておいて/はっきりさせておいて、期待しないことで、期待を裏切られて傷付かないようにしている。改めて考えると、ただの臆病者で小心者だなぁと自分でも思う。でも、ちっちゃい私の心臓は、とつぜん現れた絶望に耐えられない。

 じっさい、今まで目の前に現れた絶望たちのことごとくに私は敗れ去り、その度に心電図の揺れ幅は小さくなっていた。

 だから、そう、これは必要な措置なのだ。嫌いな物は先に食べておく。そうすれば、リスクを抑えられる。その代わり、今背負うものが重くなるけど、どのみち背負わなければならない絶望であることに変わりはないのだから、仕方がない。

 

 私は過去現在未来すべての絶望を、今観測して、今背負って、今絶望している。先送りせず、今認識している。生きるのが下手だというほかない。

 

 どうせ自分には持続可能な幸せを手に入れられるだけのスペックなどない。突発的に幸せが発生しても、私はそれを持続させられない。幸せに永遠はなく、次にいつ来るかも分からない。なんならもう来ないかもしれない。

 期待するだけ無駄だと思うくらいの試行回数を経て、手放しに期待しないようになった。だけど、もしかしたら、その根拠のない期待は希望だったのかもしれない、と、絶望にまみれた私は思うのだ。

もう素直に期待できなくなった今となっては手遅れで、もうどうしようもないけど、そう、思うのだ。

 そんなことにも気が付けなくて、気が付けなかったことで今を回避できなかった私にとっては、もうそれは希望にはなれず、絶望にしかならないけど。

 

 やることなすこと全部間違ってきた私は、きっとこれから先もすべて間違えるのだろう、と。そのことが情けなくて、どうにも、悲しい。

日記

 牛歩かってくらい進むのが遅い。

 

 やっぱり無駄にした20年ちょっとにまだ未練があるようで、うじうじと悩んでいる。

いつになったら私は大人になれるんだ、いつまで私はガキなんだ、と。周りはみんな大人になっていっているのに、それに比べて私は…と。

そりゃあ友人関係でも付き合って/合わせて“もらっている”感覚がつきまとってくる訳だ。対等に思える相手が、実は私のレベルまでわざわざ降りてきてくれている。気が合うと思った相手が、実は私に無理矢理合わせてくれている。

一度始まった思考は止められない。私は未だにおこさまで、周りはどんどん大人になっていく。この状況に納得のいく説明をどうにかこじつけないと、私の走り出した頭は止まらない。

思うに、一番身近にいた大人───つまり親だが───は、今関わっている同年代の知人たちよりずっと、ずうっとガキなのだ。やっぱり、物理的に距離を置いて正解だったと思う。しかし、当然、そんなガキに育てられた私はもっともっとがきんちょで、つまり私はどうしようもなく子供のままなのだ。

どうすれば大人になれるか、と、答えを探して地上を彷徨う生き霊と化した、子供。

 もちろん、わかりやすく一発でどうにかなる答えなんてどこにもなくて、だから私は未だにガキをやっていて。ああつまり、今私はどうしようもなく自己嫌悪に陥っていて、自分が恥ずかしくて、消えてしまいたくなっている。

 鬱の時に思考が止められなくなったら、それはもうおしまいということだ。思考はどんどん回り、加速し、容易く死の概念に追い付いた。他に何も取り得のない自分が、大人にすらなれないのなら、私に価値はないじゃないか。

 子供の癖に大人ぶって余裕ぶって、そうすることではじめて周りの人間と対等“っぽく”振る舞えるのだとしたら、そこには既に無理が生じているのではないか。

自分が対等でありたい人間は、自分がそう思うのも烏滸がましいような存在なのではなかろうか。

 私は、子供っぽい/大人らしくない行動を、それとは自覚せずにやってしまうような子供で、生きているのが恥ずかしくて、死にたくて、仕方がない。

ちょっと前進しましたよ、というだけの

 きっちり封をした部屋、一方的に流される情報の海の中で微睡んでいた。

 

 逃げ出してから半年くらい経って、私はようやく自我を手に入れた。

20年を無駄にした末に掴んだそれは、私にパラダイムシフトをもたらした。目玉が吹き飛ぶくらいの打撃が後頭部を襲った。

何もかもが分からなくなって、今までの全部が嘘みたいに思えて、久し振りに文字を読めるようになった。映画も、アニメも観られるようになった。孤独の楽しさに、負け惜しみではなく気が付いた。

 

 それはいいことなのだと思う。真実に辿り着けた、何かを楽しめるようになった、よかった、よかった。

 でも。やっぱり20年を無駄にしたことは心に重くのしかかってくるのだ。20年を短いと思えるまでには私はまだ成熟していない。これから20年かけて、無駄にした20年を取り戻していく作業のことを思うと、流石に嫌気が差す。

周りにいるのは、真っ当に20年を積み上げてきた人間だらけで、引け目を感じる。

 そのうえ、私は20年遅れただけではなく、嫌になるほどどっさりとデバフを積まれてしまった。

 ああもう、考えるだけで吐きそうだ。だけど考えない訳にはいかない。この身体は、勝手にそういうことを考えるように出来てしまっている。回る、回る。脳味噌が、遠心力で片寄ってしまうくらいの速度で回る。耳鳴りみたいな音がする。喉から腫れが洩れてくる。

 工夫すれば、生きることがこんなにも、負け惜しみ抜きに楽しめるだなんて今まで知らなかった。みんなやせ我慢をして、楽しいように振る舞っているのかと思った。そんなに楽しい訳がない、とも。

 工夫する方法は、戦術はわかった。

ただそれを活かすには、都合のいい地形と資源が必要なのだ。みんな当たり前にそれらを持っていて、当たり前にそれらを行使していた、というだけの話で。

 今の私にあるのは、前よりちょっと都合のいい地形だけで、ほかにはほとんど何にもない。だけど成功率が0%ではなくなった、というのはかなり大きいと思う。というかそういう風に思わないとやっていられない。

 

 嵐が来て、私に強い痺れと深い鬱を刻んで去っていった。起き上がるのもひと苦労。

でもその嵐は、私の命を奪うことまではしなかった。中途半端に嫌がらせをしていった。本当に嫌な奴だ。

 そういう訳で、私は今鬱の底にいるのだけれど、芽生えた自我を使って人生を歩めるのはこれから先しかないのだ、という強迫症めいた衝動も同居している。

 その二つを矛盾なく、分離させずにくっつけておくためには、やはり酒の力に頼るほかなく、喉の腫れが悪化するくらいの酒をあおった。

 

 結果として、喉は痛くて身体も痺れているけれど、ちょっとだけ生きてみようかな、と思う私が残された。

 貧乏性だから、せっかく手に入れたものを活用しないまま手放してしまうのはどうにももったいなく思ってしまう。だから、貧乏くさく、私は今回の収穫物を齧ることに決めた。

それは周期性をもった、

 呼吸が苦しくなって、吐き気がする程の体調不良。もうすっかりおなじみになってしまった、鬱期だ。

 

 服がよく乾きそうな快晴、油断すると汗ばみかける温度。半身の寒気が到来する兆しはない。

 金は入った。一時期の、口座に500円しか入っていない状況からは脱せた。

 発表された成績は悪くなかった。

 数少ない友人のひとりにだって会えた。色々と報告することも出来た。

 その上で、私は今また鬱期に入ってしまったのだ。

 

 思い当たる節は……まぁ、でっち上げればいくつかある。

 土踏まずが何度も何度も血塗れになって、立つことすら努力を要するようになったこと。全身を覆う皮膚から、異常な発汗をするようになったこと。色々と対策をとっても、これらを治すことは今のところ出来ていない。

 だけど何よりも───、未来のために生きる気力が、尽きてしまった。

 

 流石にもう、身体が治ることに希望を抱いていられる程楽天的では(意識したとしても)いられなくなったし、やりたいこともなくなった。

やりたいことが出来ても、すべて何かの(外的・内的問わず)要因によって完膚無きまでに叩きのめされてきた。この三年は特に。

何かをやりたくならないようにする回路が私の中で組み上がってしまったようで、もっともらしい理屈をこねないと何もやる気を起こせなくなった。

 ほとんどの行動の未来に失敗がちらつく。何をやっても駄目だという思考が漂う。

 

 ここからどんなに努力をしたって、なりたい人間にはなれない、という現実から目を背けきれなくなってきた。努力も気遣いも、意識すらも、このどん詰まった人生には何の影響も及ぼせない(及ぼせなかった)。

 

 自分に向けられた愛みたいなものを、はじめて感じた。少なくとも当時の私には、愛に見えた。

だけど自分は相手をひとりの人間として認識しきれなかった。自分から見た相手は恐怖と嫌悪の靄に覆われていた。これは今でも覆っている。私の精神病は、都合良く相手を視界から排除した。色々あった。

 結果、自分に対するこれ程の愛は以後現れる気がしなくなり、少し落ち込んでから意識的に元気になった。そして今、鬱期がそれを掘り出して、私を地面に押さえつけている。

 

 私は私で、ほかに最愛がいる。最愛は私をひとりの知人としか捉えてないだろうけど、私にとってはたしかに最愛だ。そいつのことを考えると苦しくなるくらい。

だけどもそんなそぶりをチラリとでも見せたら引かれてしまうだろうから、おずおずと遠回しに愛でるしかない。

 最愛にとっての自分を考えると、どうでもいい存在としか思えない。いつ切れてもおかしくない縁で繋がっているだけの。違う世界/層に生きていて、本来なら重ならないものがたまたま重なっただけ。

 そういうことを考えるくらいには心がやられていて、日光の中でまた性懲りもなく泣いている。

 

 これは一過性の鬱期で、その内楽しいことも悲しいことも、全部がどうでも良くなる凪がやってくることは知っている。伊達に数年鬱をやっていない。

だけども毎回鬱期にはこの世の終わりと思う程の憂鬱がやってきて、私からその時点で残っている生きる気力を根こそぎさらって行ってしまう。

それは今回も例外ではなく、張りぼて/茶番だと理解していてなお縋っていた希望が、やはり張りぼて/茶番でしかなくて。そんなものには縋れるだけの耐久性なんてなかったことを認識して、吐きたくても吐けない体調不良の波に呑まれているのだ。

 

 自分の中に少しだけ残った希望/意欲が、私に

「依存先を増やそうか」と囁く。簡単に言ってくれる。もはや私には連絡をとれる知人すらほとんどいないのに。

 とち狂って一瞬だけマッチングアプリとやらをやってみたこともあったけど、そのやりとりの段階で馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。

 趣味と呼べる趣味も、何かへ興味を向ける程の元気もなくなって、馬鹿馬鹿しくなって、自分の中の逆張り思考に笑われるのが目に見えて、依存できる娯楽はなくなった。

今やっている娯楽は全部、由来不明の義務感/焦燥感にかられてやむなくやっている気分がある。娯楽というより業務のようで、とてもじゃないけど手放しに依存できるものではない。

 どん底から脱け出せるような気がして、飲む酒の量を減らした。だけどそれで浮いた金を回すあてがない私にとって、その行為は虚無の時間を増やすだけのものだった。

 唯一の救いは、煙草が呼び起こす親の記憶から、煙草を吸う気が起きないことくらいか。

 

 

 鬱期。私に根付いた被害者意識がうるさくがなり立てる時期。同時に、加害者でもあるという意識が対抗してわめき出す時期。

 生きる意味なんてどこにもなくて、自分が勝手に見出すだけのものであることは充分理解したつもりだ。私にとって、生まれてしまったから生きている以外の意味はない。

 だけども自分の“価値”を考えると、生き続けるだけの価値/必要は私に無いんじゃないかと思う。鬱期だからか余計に、自分が何の価値も提供できない穀潰しであることを強く認識してしまう。

 いずれ終わると分かってはいても、やはりこの時期は無性に辛くなる。

 つらい時期だ。

必要なのは懺悔

 自戒。私は被害者ではない。

 

 やはり加害者として糾弾を甘んじて受けるだけの土壌が、私の中には育っていない。それよりも、私はいかに自分の弱者性を押し出して同情を誘うかという方向に動いてしまいがちである。

 自分を卑下して他人より低い台に降りることで実際の自分との差から目を背けるためで、裏を返せば他人を信用していないからだとも言える。そこまでしないと他人とは関われない、と。

 

 実際弱い立場にはあるのだ。私は周囲に比べて貧しい環境下にあり、生活には余剰なんてどこにもない。なのに不運な/幸運なことに私は周囲の人間に、今の自分ではとてもつりあえない程に恵まれてしまった。

 それまでに感じたことのなかった喜びを感じた。同時に劣等感も。

 

 その劣等感は卑下、被害者面に繋がっていくことになる。だけども実際には傲慢に、被害者ぶりつつ他人から簒奪していたに過ぎない。

 私は被害者ではない。にもかかわらず被害者であろうとした。単に怠惰によって。

 

 

 懺悔。私は被害者の皮を被って他人を傷付けた。