生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

一応ひとつの節目にはなる

 一応ひとつの節目になる時期なので、今後の身の振り方を考えてみた。


 新しい雑記帳と、ペンを買った。いつものようにとめどなく溢れる思考を/いつもブログに書いているようなことを、デジタルではなくアナログに出力し続けてみた。

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 そうしてようやく気がついた。これ、別にブログに書かなくても良いことじゃないか?と。

 日記だったり備忘録だったりとして書き続けては来たものの、最近アクセス数も増えてきて若干嬉しくは思ったものの、別にブログじゃなくても良いような気がしてきたのだ。


 結局のところ、私は誰の記憶にも残らないこと、人の記憶から自分の存在が消えることが怖くて、それに抗いたかっただけなのだと思う。

 誰かにこんなろくでもない自分が、この世界のどこかにいることを知っていて欲しかったのだと思う。

そして、そして。

私がしてきたことは間違っていなかった、と言ってほしかったのだと、私を認めてもらいたかっただけなのだと思う。


 アクセス数の増加は、その欲求を満たさなかった。それどころか読者がこのブログに何を求めているのか分からなくて、笑い物にしにやってきているのかと思うくらいだった。何故かは自分でもよく分からない。憂鬱症のせいだろうか。

 書いてる本人が何を書いたか書いてないのか覚えてなくて、ちっとも前に進まない記事を投稿する度に、少しではあるけど増えるアクセス数。

それでもそれはやっぱり数字でしかなくて、言葉ではない。だから自分の記事をどう読んだのか、非難したいのか笑い物にしたいのか、それすらアクセス数という数字からは読み取れなくて。


 自己満足のために始めたはずのブログだったけど、そこに「人に認められたい」という余計な欲求が乗っかってしまった途端に“アクセス数の増加”と“フィードバックが全くないこと”の間のズレが気になるようになってしまった。安定剤では面倒を見切れない部分の感情に、不具合が現れ始めた。


 だから、潮時なのかなぁ、と思ったのだ。

元々誰からも求められていない、憂鬱症患者の陰気な文章を投稿する義務/需要なんてどこにもなくて、ただただ自分の「認められたい」という願望に基づいて投稿していただけ。

 しばらく続けてきたけど、結局は誰からも認められなかった。私のしてきたことは間違っていなかったと思うことも出来なかった。


 だから、だから。いい加減に自分が誰かから認められることはあり得ないことなのだと理解して、読む方が気分が悪くなってしまうような文章をネットの海に流すのはやめた方がいいのだろうな、と考えた。


 流すならばネットの海ではなく、雑記帳のざらついた紙の海に流すべき事柄だったのだな、とも思った。



 ごめんなさい、需要もないのに読んでいて気分が悪くなるような文章を流し続けて。

 少しの間、このブログをどうするか考えてみます。継続するか、削除するか。はたまた別の選択肢を選ぶのか。

生きるため、というよりはうっかり死なないために、生きることから逃げられないように、何かやることを決めて逃げ道を封鎖しておきたいという気持ち

 読書会に参加して、同じグループになった方と色々お話ししている内にやりたいことが出来た。

 

 その方曰く、「友人と個人的に読書会を開いている」とのことで。詳しくお話を伺ってみたところ、どこかで貸しスペースを借りて課題本を決めて、集まって読書会を開くらしい。何だかとても楽しそうじゃない?

 

 どうせ暇人するだろうから、そういうこともやってみたいと思った。その方が言うには内容も緩くて、例えば「秋の夜長に読みたい本」とか、「とにかくお勧めしたい本」とか、「話題作で気になっている本」とか。そういう風にお題だけ決めて持ち寄って、みんなの読書会×森の図書室みたいにその本をプレゼンするらしい。楽しそう。

 

 私もやってみたいと思った。その方のようにお題を決めて…もそうだし、参加者で「"自分はすでにこの本を読んだけど、他の人はこの本をどういう風に読み解くのかが気になる"本」とかでもやってみたい感。

 

 どうだろう、もしそういう企画をして、どこかの貸しスペースを手配したら乗っかってくれる人はいるだろうか。もしそういう人がいたら何か企画するぞ。というかこの先の道が真っ暗すぎて、そういうことでもして生きるためのモチベを得ないとやっていける気がしない。

 

 何でもいいから、逃げ道を封鎖したい。

自分以外の人間はみんなゾンビだ

 (哲学的)ゾンビだ。

 最近ひとりでもやもや考えることが多いからか、悟り、というか師匠が辿り着いた答えに辿り着いてしまいそうで、でも今悟っていられるほど実家が太い訳でもなくて……みたいな状況に陥っている。
油断すると悟りそう。なんだそりゃ。


 近頃とんと人に会わなくなったけど(から?)、色々考えてたら、(あ、私以外の人間はみんな、哲学的ゾンビと何も変わらないじゃないか)と思ってしまった。
 他の人に自我がない、と言いたい訳でも、他の人は何も考えていない、と言いたい訳でもない。
ただ、他ならぬ自分が認識している自分の世界において
「自分に他人の思考回路や行動原理は分からない」という意味で、私にとって他人はみんな、哲学的ゾンビなのだということだ。
前に書いた、自分の世界は自分を中心に回っている話に関係する。自分の世界は、自分が認識出来る範囲にしか広がることが出来ない。他人の考えていることは自分には認識できない部分だから、自分の世界の対象外だ。
 それでも、そんな自分にも認識出来る他人のことがある。それは外見や振る舞いだ。他人が外の世界に向けて発信している、行動そのものだ。
 私には、相手が自分に向けて笑ったり/怒ったり/泣いたりする様を見ることでのみ、その相手のことを理解する手段が与えられていない。
私は相手の表面に現れたものから、相手の心情を“推測する”ことしかできない。
ならば。例え相手がどんなことを考えていようと考えていまいと、自分には相手の心が正確には把握できないのならば、自分にとってはやっぱり他人は哲学的ゾンビでしかない。他人は何かを考えている、だけど自分にはその何かが分からない。だったら、自分が認識している自分の世界の中で、他人はみんなゾンビと何も変わらないじゃないか。


 他人が自分に向けて笑う理由が常に「楽しいから」なんて限らなくて、他にも「嘲っている」とか「哀れんでいる」とか、色んな理由が“考えられる”。“推測できる”。
 私はそうやって、自分が認識する世界に対して自分で勝手に意味/理由を付けて、自分を納得させることしかできない。目に見える物全てを自分なりに解釈して、定義付けすることでしか生きていけない。自分の解釈した他人の思考が、他人が本当に考えていたこととは一致していなくとも、私にはそうして世界を見ることしかできない。
 私には、そういう生き方しか出来ない。

1秒が、次から次へと絶え間なく襲いかかってくる

 自分がそこに立ち止まっていても、時間はお構いなしに向こうから絶え間なくやってきて、自分の後ろに通り過ぎていく。電車の車窓から見える風景のように、後ろへ後ろへ流れていく。


 次の1秒なんてこなければいいのに、なんて願っても、それでもやっぱり1秒はやってくる。過ぎていく。その1秒をどう使おうが/使うまいが、期限がくるとそれは自分の手に負えるものではなくなる。自分の手に負える、現在ではなくなる。

 私は未来に希望が持てない。
時間が経つにつれて「好き」が次々と消えていく。
代わりに「嫌い」がどんどん増えていく。
どちらも私には理由が分からない。理由も分からないまま次々に消えていって、どんどん増えていく。
だから未来に、未来の手前にある次の1秒に、何も期待できない。また「好き」が消え、「嫌い」が増えるであろう次の1秒に、来ないでくれと叫びたくなるくらい。

 この世に生を受けた瞬間からずっと、私の人生は下り坂。上れたと思っても結局突き落とされる。
だからもう、この先生き続けていても今より何かが良くなることなんて決してないのだろう、と考えてしまう。
 昔、まだ私の両手両足が岩や地面をしっかりとらえることが出来ていた頃、よく山を登っていた。
汗と筋肉痛にまみれながらも、“頂上が確かに存在する”、“足を前に出し続けさえすれば/手を上に伸ばし続けさえすれば、確実に頂上に辿り着ける”と分かっていたから、進み続けることができた。

 でも今は、その“頂上”がまず存在するものなのかも分からない。だからどこにあるのかも分からない。
足をどこに出せばいいのか/手をどこに伸ばせばいいのか、分からない。きっともう既に、知らない内に頂上を通り過ぎてしまっていたのだろう。そして今の私に思い当たる頂上はやっぱり、この世に生を受けた瞬間しかない。

 「この先きっと、いいことがあるよ」と言われたとしても、今の私はそれに耳を貸すことはできない。だってこの先がどうこう以前に、生まれてからこれまでに受けてきた教育やら何やらが、今の私を形作って/作りきってしまっているから。そしてそうやって形作られてきた今の私は、自分に対して“この先いいことが起こらないように”という呪いを無意識の内にかけてしまっているから。

 その呪いが元凶なのだろう。
未来/次の1秒が、私に「好き」を失わせ、「嫌い」を増やさせるのは。
そうして私に対して、「次の1秒なんてこなければいいのに」と願わせるのは。

この世界の中心には誰もいない。何もない。

 マントルだの内核だのがあるだろう、という話ではない。だからといって、旧支配者がいるのではないか、だなんてオカルティックな話でもない。
そんな遠くの話じゃなくて、もっと身近で、自分に関係する話だ。


 この世界は、今私たちが生きているこの世界は、誰を中心にして回っているのか?
政治家か、資産家か?政治的には/経済的にはそうかもしれないけれど、もっともっと抽象的/形而上的に、
“この世界を回している存在”は?と問いかけた時、きっとそこに当てはまるものは何もないだろう。少なくとも人類の中には。そして今観測出来る範囲の中では。

 一方で、私の世界/私が自分の全身の感覚器官を総動員して感じて頭の中の演算装置で認識している世界はおおむね、私を中心にして回っている。
 それでも、私は物理的にも精神的にも弱い人間だから、たまに物理/精神的に力を持った人間に影響を及ぼされて“私の世界”の主導権を他人に奪われることもある。だから“おおむね”なのだ。
 そしてそれは、私以外の人間も同じなのだ、と私は考えている。
他の人も同様に、その人自身が中心になって回っている世界で生きているのだ、と。

 ようやく気が付いた。当たり前のことなんだけど、自分自身が“自分が自分の世界の中心ではないこと”をたまに経験しているがために、私はそれに長らく気が付くことが出来なかった。
私は私の世界の中心にいて、他人はその人自身の世界の中心にいる。

 だから。他人は少なくともその人自身の世界で通用する価値観で生きているから、その価値観が私の世界の価値観と全く同一のものであるとは言い切れないのだ。
この世界の価値観に自分がどれだけはまっているか、という話ではない。この世界の価値観と、他人の価値観が同一であるとも限らない。
 私自身が「気が合う」と思い込んでいる他人も、私の世界の中心ではないし、同様に相手から見た私もその人の世界の中心ではない。

 それでも自分の世界の中心にはおおむね自分自身がいるから、やっぱりこの世界の中心には自分がいると思ってしまう。私も一時期そうだったけど、そういう人たちをネットで見かけることがある。この世界の中心には、自分の世界と同様に自分がいるのだ、と。この世界は自分を中心にして回っているのだ、と、思い込んでいる人たちを。

 本当に厄介だと思う。自分の人生を順調に生きてこられた人ほど、気が付きづらさが増すという点において。
 そういう人たちは、自分の基準がこの世界全体共通のものだと信じて疑わない。たまたま今まで“この世界の基準に自分が影響されていたから、基準が一致していたというだけのこと”に気が付けない。

 順調に生きてこられなかった、所々で躓いてきた人間は、躓いたところでそれに気が付く機会を得る。この世界の中心に自分はいない、と。
 だけどそれだけだとあまりに救いがない。
確かにこの世界の中心には誰もいないし何もない。それでも自分自身の世界の中心には他でもない自分が居座ることが出来るのだ。
 だから自分自身の世界だけは、自分の意思で回すことが出来るのだ。誰から影響を受ける/受けないのかも、自分の意思で選択出来る。そこには、自分の意思が通用する。


 だけど次のことは胸に留めておかなければならない。
「自分の世界は自分の意思で変えていけるけれど、他人の世界は自分の意思で変わるとは限らないし、この世界もまた同様である」と。
 「自分はある人といると楽しいと思う、だから一緒にいたいと思う」。ここまではいい。
「自分はある人といると楽しいと思う、だから一緒にいたいと思うし、相手も同様に自分と一緒にいたいと思っているに違いない」。そこまで行ってしまうと駄目ということだ。それは傲慢というものだ。

 私は長らく行動を共にした、あるひとりの友人の人生が、この先私の人生と交わることはほとんどないのだろうな、ということに気が付いてしまって考えた。
 長らく行動を共にしてはいた/できてはいたものの、それは私の世界の中での価値観と友人の世界の中での価値観が“その時たまたま”類似していただけのことだったのではないか、と。
だからもう行動を共にすることも少ないこの先の人生で、自分とその友人の価値観の間の差は今以上に開いていくのだろう、と。
 少し寂しい気がしないでもない。
その友人がどう思うかは知らないけれど、少なくとも私の方では、この先の人生が相手のそれと交わらないことを少し寂しく思う。

“普通じゃない”は“治療”によって“矯正”される

 まだまだ未熟な人類は、多様性の中で様々な可能性を模索して進歩していく余地があるのにね。


 昔は個性として扱われてきたものが、今や脳内物質の異常によるものと判明し、“病気”だと定義されている。ひとつの個性が、その社会の中で生きづらい/その社会の中ではおかしいとされる、という理由から、“薬で治療し、矯正されるべき病気”とされている。

 その治療は個性を塗り潰していく。多様性を狭めていく。
それでもこの社会の“最大多数”は、これからも自らの最大幸福を得るために、最大多数以外の存在を視界から抹消し続けるだろう。
そしてまた、最大多数の中の最大多数が、それ以外を無視しながら社会を進めていく。そんな気がしてきてしまうのだ。


 私は“普通じゃない”。“普通”以下という意味で、普通じゃない。
だから治療を受けている。“普通じゃない”を抑えるための、薬を処方されている。
たしかにそれを飲んでいると、この社会の中では生きやすくなったような気持ちになる。多分、薬によって“普通じゃない”が抑えられて、この社会の“普通”に近付けられるからだろう。
だけどその薬を飲み忘れた途端に、この社会の“普通”は私に差し伸べた手を引っ込める。やっぱり私は、しばらくこの薬を飲み続けなければならないようだ。この社会の“普通じゃない”から“普通”に、自分自身を矯正するために。

 この社会の最大多数(普通)はホストで、それ以外(普通じゃない)はゲストのようにも思える。私たちは、ホストが“自分たちが暮らしやすいように整備してきた社会”に「お邪魔させていただいている」ゲストでしかないように。
 そしてホストは、私たちゲストを歓迎していない。それどころか努めて「いないもの」として扱おうとしているように見える。
それでも“普通じゃない”の中でも勇気と声量のある人が、
「(“普通”から見て)うるさく権利を主張して騒ぎ立てる」から
「仕方なく」“普通”の人々は“普通じゃない”人のためにこの社会を「整備してあげている」ような気持ち。気持ちは分からないでもない、だってお金にならないもの。最大多数のためにならないもののためにただただお金を使うのは、無駄遣いと思えてしまうのだろう。

 “普通”からドロップアウトして、“普通じゃない”になったと思い込んでいる人々がいる。
そういう人々は、“普通”と同程度の力や声量で、自らが“普通じゃない”ことを主張する。そちらは“普通じゃない”人が声を上げるよりも声量が大きい分、対応されるのも早いように見受けられる。
 具体的に言うと、高齢者の方々の中に紛れ込んでいる、ネットスラング的に言うと「老害」と呼ぶべき人々などがそれにあたる。
 彼(女)らが、“普通”でいられているのにもかかわらず、“普通じゃない”を装うところを嫌になるくらい見た。二年前の夏、あの地獄のような数ヶ月の間、私は見たくもないのに見せられ続けた。
同室の人間相手に、私以外の他の同室の人間についての陰口を叩く人間がいた。
お見舞いに来た、まだ無垢な子供を宗教に勧誘している人間がいた。
夜遅くに廊下から、その場で決まっているルールに対してクレームを入れる大声が聞こえてくることがあった。
制度を悪用(?)して費用を抑えようとする家族もいた。
他にも色々とあった。
あの数ヶ月間は、私に“普通”と“普通じゃない”の差を理解させるには十分な期間だった。二度と経験したくないと思うくらい十分に、私はその二つの差を理解した。“普通じゃない”を装う“普通”の存在を、再認識した。

 十中八九私が読んだ本の影響なんだろうけれど、私はいずれ、今ただ単にひとつの個性とされているものすらも、場合によっては
「薬による“治療”によって“矯正”されるべき“病気”」と定義されてしまうような気がする。それが
「医療の発展によって自然に生まれた薬の効能に、その時の社会にとって“少しおかしい人”を治す効果があると認識されたから」という理由によるのか、
「その時の社会が“少しおかしい人”を排除しようとしたから」という理由によるのか、どちらが先かは分からない。
 分からないけれど、そうなってもおかしくない、と、“普通じゃない”私は思うのだ。

自分の中に、相反する2つの感情が同居している

 また二重思考ですか。懲りないねぇ、本当。

 

 最近、元から何ひとつ/失える程の何かすらも持っていなかったはずなのに、心にぽっかりと穴が開いたような、喪失感が胸に去来することが増えた。秋だからだろうか。

 

 「自分はどうしようもなく孤独である」今となってはどこの集団にも―――唯一所属している集団にさえ本当の意味では―――所属していない。

その唯一所属している集団には、システムや書類の上では所属していることになってはいるものの、どうにもこの私自身の心そのものが、所属できていないような気がする(書いていて何だか、くっころヒロインを思い出してしまったけれど、別にそんなつもりで書き始めた訳ではないことを一応断っておく)。

 家に自分以外の人間がいる時は、自分の部屋の扉をピタリと閉めて籠りきる。自分のやりたいことを、ひとりで落ち着いてやれる環境を作り出したくなる。

 

 そう思っているにもかかわらず、私がそう思うのと同じ脳味噌に、次のような思考が同居しているのもまた事実ではある。

 

 「ひとりぼっちは寂しい」自分でも訳が分からないけれど、そう思ってしまうのだ。自分の居場所がないことが、きっとその思考を生み出した。元から居場所なんてどこにもなかったはずなのに、"元々あった居場所を失ってしまったかのような"喪失感が、私の胸に穴をあける。元来の孤独が、新たに付された呪いであるかのように妄想してしまう。

 世界が私ひとりを置いて、前進していくように見えてしまう。

 都合がいいな、と、自分でもそう思う。ひとりになりたい時には嫌いな人間を拒絶して、自分の世界から徹底的に排除する癖に、いざ人恋しくなった時には他人を求めるだなんて。都合がいいにも程がある。

 

 流石に明日は外に出てどこかに行こうか。多分疲れるだろうけど、窮屈な家でも一際薄暗い、自分の部屋に閉じこもって暇を持て余すよりかは幾分マシだろう。