生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の備忘録

『虚実入り乱れた半自伝的……

 知ってる人は知っている、『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』のプロモーションに私が関わらせていただいたことに関連して。

 営業の方は同書を「虚実入り乱れた、半自伝的小説で……」と売り込んでおられました。実際そうなんです。入り乱れてます。

 最近すごい暇(実際忙しいけどそこから目を背ければ暇)で、このブログに色々書き殴っては投稿してるんですけど、今になって振り返ってみて思うんです、(あぁ、このブログには現実のような顔をした虚構もたくさんあるなぁ)と。
(自分の意見のように、自分ではない空想した人物の立場に立った意見を言っていることもあるなぁ)
(虚実が入り乱れてきたなぁ)と。
その内、自分とこのブログの中で、虚構も現実もごちゃ混ぜになって、何が本当のことで何が妄想のことなのか、自分自身ですら分からなくなってくるのかもしれません。

 ま、今ある現実なんて、元々虚構みたいなものなのだから、それが今更虚構と入り乱れたところで何も変わりはしないのかもしれませんが。

“傾聴”してきました

 つい先日、学内で行われた傾聴講座とやらに参加してきました。

 これからボランティア活動をする人向けの講座だけど、そうでない人も参加していいですよ~みたいな感じの。だからなのか、予想以上に人数がいてびっくりしました。やっぱりほとんどの方が夏休みにボランティアしたい、みたいな人で、同じ班にもそう言ってる人がいました。

 え、私ですか?や、そういうの全然関係なくて恐縮なんですけど、ただ単に“人と会話する時の聴き方をきちんと学べるなら学んでみたい”って動機で参加しました。
喋るのが苦手な癖に聴くのも苦手なタイプのどうしようもないコミュ障なので、せめて聴けるようにはなりたいなぁと思ったんです、はい。

 グループワークで役割を代えながら傾聴の練習を何度かしたんですけど、やっぱり自分って話すのすごい苦手なんだなぁと話し手の役割の時に思いました。ならせめて聴けるようになれやって感じなんすけどね。人生ままならない。

 あとやっぱり、傾聴を学んでみて、「聴くこと」に専念することは自分にとってはすごい楽だなとも思いました。普段いかに自分があっぷあっぷしながら喋ってるか、喋らなきゃって使命感に駆られているかも身にしみました。
喋らなきゃってなるのが自分がコミュニケーションをとる上での障害なんだな、とも(それすら自覚できていなかった)。

 傾聴って、ただひたすら聴いて、あといくつかの話し手が話しやすくなるような行為を取ることなんすよ、私は知りませんでした(こなみ)。だから、こちらは語ってはいけないんです。ひたすら相手の語るターンで、こちらの意見は一切述べない。
 いや~、すごい楽だと思いましたね。聴くのって楽しいじゃん、とも。もっと色々聴いていたい、とも。

 道徳か何かの授業でやるべきですよ、これは。うん。

 傾聴を学びましたが、依然として私の「話し下手」は課題として残ってます。ひぇ。いい加減克服させてくれ。

そういうとこだぞ(自戒)

 地上の災害を予期し地下に都市を築いた人類以外の動物が絶滅し、人肉食が主流になった世界で食用に養殖されるヒトはみな同じ姿形をしている(加工のしやすさ)。

 いや普通についーよで済ませようと思ったんですけど、こういう戯言置き場を作っておくのもいいかなと思いまして(雑念にまみれた人)。

 こういうことばっか考えてるの拗らせたオタクって感じであかんですね。あかん。あかんですよ。

 人肉食が普及した後、倫理的な問題から人肉食を糾弾する団体(動物───旧い言葉で言うところの───食主義者)が出現し、遺伝子組み替えによりヒトとは姿形がかけ離れ栄養補給のみに特化した生物(旧時代に食されていたと文献に記述されている生物を模したもの)が生み出されたものの、製造コストや残存地下資源の問題から製造は中止された。
なお、製造中止に伴い廃棄された完成品/未完成品が廃棄場から消えているとの報告が後になされたが、消えた廃棄物の行方は未だに分かっていないという。
それはともかくとして、そうして代替品も見つからないまま人肉食は主流になっていった。
飼育されるヒトにもランクがあり、その肉質により格付け・値付けがなされる。製造コスト・味の面から一般的によく食されているのは年齢換算で言うところの10代から20代のヒトだが、一部のマニアの間では(年齢換算)40代のヒト食がよく熟成されて美味だとして流行っている。
ヒトの養殖には化学的手法が用いられ、急速成長させることにより一年を通しての供給が可能になった。ある年、食用ヒトの脳は人類のそれより萎縮しており、人類のような思考能力は有さないという学者の見解が発表された。
食用ヒトの数え方はもちろん1人、2人ではなく1匹、2匹だ。

 こういう、1話にも満たないような戯言を置いていけたらなと。
いや、最初の四行程度からここまで筆が乗ってしまって流石にどうかと思った。そういうとこだぞ。そういう、とこだぞ(迫真)。

色の話

 このブログを始めた頃かな。「きみの書く文章には色がない」「小説を書きたいのならもっと色彩豊かな情景を描くべきだ」と、言われたことがある。

 それをふと思い出して、文章の色って何だろう、と考えていた。
まずは自分が好むコンテンツを構成する「色」について考えてみた。
黒、朱殷、錆色、鼠色……大体その辺りの色で完結している物が多い。まぁ、ハヤカワSFが好きな時点でお察しなのだけれど。
あれ、色彩豊かな文章って何なんだろう。自分が書きたい、書ける物はその色なのかな、と思った。
 違うだろう。違うはずだ。
それを言った人の真意は分からないが、きっとその人は明るい、未来ある、前向きな作品を求めていたのだろう。
けれど、私にはそういった色は書けない。描けない。だって、私の世界はそんな色で構成されていないのだから。
目に見える/目が映像として認識する色の話ではない。目から取り込んだ映像は、信号として体内のバイパスを通って脳に送られる。問題はその脳内にあるスクリーンに、どういう世界が映し出されているか、なのだ。
そして私の脳内のスクリーンには、いつも白黒の映像が映し出されている。
白は光、あるいはそれでしか表現できない物を表している。
黒は、ただ色がないから、とか気持ちが沈んでいるから、とかじゃない。色々な物を含んだ末の、黒を表している。

 ひとまずここでは、光の話は置いておく。私にとっての光は白一色で、それも何か他の色の光を含んだ白ではないから。
色の話をする。絵の具とかの方の、色の話。
実のところ、私の頭の中には色々な絵の具がある。小さい頃から買い与えられてきた様々な種類の絵の具が、まだそこに残っている。色に溢れている。
色はある。だが、ある、といっても“ありすぎる”のだ。色が。
あなたは覚えているだろうか。絵の具を全部混ぜると黒になることを。よほど白の力が強くない限り、白を入れても限りなく黒に近い色になることを。
そう、今の私はまさにそういう状態だ。本棚の箱の中の液体にはそれぞれ色が付いている。当然だ、記憶と言っても一言では片付けられない。赤い記憶、青い記憶、黄色い記憶、空色の記憶……とにかく、いっぱいある。
そしてそれらは前述の通り、「漏れ出て」くる。無秩序に、不条理に、こちらの意向など無視して漏れ出てくる。
するとそれらは混ざり合う。赤い記憶も青い記憶も、黄色い記憶も空色の記憶も、何色だろうと構わずに、それらは互いに混ざり合う。
そうして混ざりきって、黒になる。

 その黒と、小さな明かり取りから差し込んできた光の白が、私の脳内のスクリーンの上で世界を描き出している。
だから私は、どう足掻いても白黒の文章しか書けないのだ。背景と文字の色そのままの、白と黒の文章しか描けないのだ。

女の子にはSGがあるらしい。Secret Gardenの略語だ。

 真昼、微妙に暑くて冷房を着けた。でも何だか寒くて、除湿の最弱に設定して、毛布と布団にくるまって過ごしていた。

 夕方、それでもやっぱり寒くなって、布団にくるまったまま、手を床に這わせてリモコンを探し、冷房を消した。だから今、私は毛布と布団にくるまったままの状態で布団に横たわっている。

 しばらくそうしているのだけれど、これまた面白くて、右半身は若干の暑さを感じて汗ばむくらいなのに、左半身はまだまだ肌寒く感じるらしいのだ。でも頭がぼうっとするくらいには暑いから、多分暑いんだろう。

 暑さでぼうっとした頭と、左半身のことなんか構いもせずに少し火照った右半身を知覚しながらしばらく目を瞑って、このまま晩ご飯の時間まで眠れたらいいなぁ、だなんて思っていた。
すると、するとだ。またどこからか、記憶の水が漏れ出てきた。暑さがトリガーになったのだろうか。
 すこし息苦しい記憶。誰かが舌で、私の口腔をかき回して陵辱する記憶。顔が、心臓が、下腹部が何となく熱くなる、記憶。
 やはり根は深いみたいだ。

 私は今、寂しさを抱えながらも、特別な、ひとつところにはどこにも属さず生きている。
人の温もりは、砂漠においての水のように人の心を奪うから。依存したところで満足に供給を受けられない物に依存すると、禁断症状で心が死ぬのが目に見えていたから。
 いいなぁ、とは思っていた。人の温もりを得られる人を。そして私もそうなりたいなぁ、とも思っていた。
だから、だから、だからこそ、あれは駄目だったのだ。寂しさの中に生きながら、その寂しさから目を背けている人間にとって、あれは劇薬だった。


 話は変わる。
SG、という概念がある。ゲームの話だ。女の子の心の中には「Secret Garden」…つまり秘密の花園がある、という設定。その子自身の欠点ではないものの、指摘されると恥ずかしい、そんな弱点がいくつかある。その弱点ひとつひとつをSGと呼び、女の子の心象空間においては「心の壁」のような形を取って出現する。
ある子にとってのSGは露出癖、また別の子にとっては拝金主義、と、人によりそのSGは異なる。
SGの内容こそ異なれど、それを指摘すると心の壁が崩れ去り奥へ進めるようになる、という効果が現れる。しかし、そもそもその子にとって自分のSGを指摘される/知られるのは恥ずかしい、だから必死に隠そうとする、でもその自身すらそのSGを自覚していないことが多い……。

 そういう、SGの話を思い出した。心の中でも特に柔らかくて、脆い場所、Secret Garden。別に女の子に限らず男の子にも、大人の女性にも男性にもある概念だと思う。決して欠点ではない、弱点。

 そして、自分のSG1は「寂しがり」なんだな、とようやく自覚した。ひとり○○とかには全然抵抗がなくて、映画とかカラオケとかもひとりで普通に行ける。でも、はた、と立ち止まって自分に立ち返ったり、誰かと一緒に幸せを得ている人を見たりすると途端に自分の寂しさを認識してしまい、心が締め付けられる。目を背けていた“寂しい”を相互認識してしまう。

 だから余計に、人の温もりを知ってはいけなかったのだ。人の体温を、人に求められることを知ってはいけなかったのだ。

 私は多分、あの時感じた熱に“自分が普段どれだけ寂しい生活を送っているのか”を改めて知覚させられて、今もなおあの時の熱を追い求めてしまっている。

眠っている間に全てが終わっていて、気付いた時にはひとりぼっちだった

 私は私の好きが分からなかった。嫌い、は分かっていたけど好き、だけは分からなかった。

 だから決して手の届かない物/者を好いた。
自分でも理解し切れていない“好き”を投げかけても互いに害はないと思ったからだ。
身近な物/者は好くことが出来なかった。より正確には、“好き”を投げかけた時に“好きじゃない”が返ってくるのが怖くて、好くことが出来なかった。
 だから、決して叶わない恋をし続けた。自分はその人が好きなのだと、周囲に吹き込まれ続け、自分でも自分に言い聞かせ続けた。そうして、本当は好きじゃない人に恋をしているそぶりをして、本当は好きじゃない人に告白して、見事に打ち砕かれて、泣いた。
 そうしたら、好きな人を作るのが怖くなった。自分の“好き”が、決して認められないことが怖くて、誰かを好きになっても、その人は私の好きな人じゃない、と自分に言い聞かせ続けた。

 自分になんて絶対に振り向かない人を好いた。傷つくのが怖くて、“好きじゃない”が返ってくることが分かっている人を、好いた。
 それは青春において、一種の仮死状態だった。灰色の恋をし続けながら、色彩豊かな恋に焦がれた。

 仮死状態から目覚めた時には全てが終わっていて、浦島太郎状態。そうして自分の“好き”の正体に気が付いた時にはもう、ひとりぼっちだった。自分が“好き”を投げかけた時に“好き”を返してほしい人は、私のところからは遠く、遠く離れてしまっていた。

 あの時聞かれた「どうして泣いているの」の、本当の答えはそれだったのかもしれない。
私の“好き”が、もうその人に決して届くことはないことを、他ならぬ私自身が認識してしまったからかもしれない。

“記憶”の海に溺れて

 この身体を抱えて生きていく上で、“記憶”について考えることは避けては通れない。自分は門外漢だから、厳密に、科学的に考察することが出来ないけれどらそれでも、だ。

 まず、記憶について考える上で基本となるのは、余所でも言われているように、「机」と「本棚(書庫)」の概念だ。
「机」はワーキングメモリのために、「本棚(書庫)」は長期記憶のためにある。「机」で作業して、必要とあらば記憶を「本棚(書庫)」に保管する、という考え方。本棚に仕舞うのだから、その保管される記憶とは本のような形式なのだろう、と少し前まで考えていた。

 だけど違う。違う、というか、どうも違うようだぞ、と思うようになってきた。
「本棚(書庫)」に仕舞うための記憶は、まずワーキングメモリから長期記憶にするための加工を経ることになる。その加工は「机」の上で行われる。
まず、その「机」の上で、本のような形をした箱の、本で言うところの“背表紙”にあたる部分にある蓋を開く。箱の中は空洞になっている。
開いたところへ、長期記憶に移行させる記憶を注ぎ込む。記憶は固体ではなく流動性をもった液体だから、このような形式でしか保管が出来ない。
注ぎ込むと同時に、その記憶に関する五感の記憶もフレーバーとして混ぜ込む。そうすることで、記憶の引き出しやすさを高めるのだ。どうやら私の場合、ここで“におい”に関する記憶を混ぜることが多いらしい。
記憶と、フレーバーを注ぎ込んだら蓋を閉めて「本棚(書庫)」に仕舞い込む。これでようやく、長期記憶として成立する。

 健常な状態であれば、基本的に「机」の前に座って作業をし、必要に応じて「本棚(書庫)」から該当部分の記憶を引き出し、参照する、といった作業を繰り返して日々の生活を送る。

 だが、異常な状態───今の私のそれのような───の中だと、まず「机」の前に座ることすら困難なのだ。何故ならば、「本棚(書庫)」に保管されているほとんど全て箱の蓋が脆くなっていて、常に開いた状態になってしまっている。つまりどういうことが起こるかと言えば、それぞれの箱の中身が溢れ出し、「机」が置いてある部屋を、その中身である所の液体(記憶)で満たしてしまうのだ。
当然、泳ぎ続けなければ溺れてしまう。けれど、「机」は依然として床にへばりついている。だから日々の生活を送るためには、まずその「机」までたどり着く必要がある。雑多な記憶で構成された海を潜って、海底にある「机」の前に座る必要がある。
たどり着くまでの間に、雑多な記憶の海水を飲み込んでしまったり、飲み込まなくとも海水に漬け込まれるだけで影響を受けてしまったりする。目的には必要のない、余計な記憶も「机」に持ち込んでしまうのだ。
そうしてようやくたどり着いた「机」でまずしなければならないのは、少なくとも「机」の表面を覆う海水を取り除く作業だ。これまたかなりの労働で、上から流れ込んでくる海水をどうにかせき止めながら、「机」を乾いた、普通の状態で維持させなければならない。
ここまでして「机」の上でやる作業とは何か、といえば何のことはない、ただ友人と何を話すかを考えるだけのことだったりする。
でもそんな単純な作業さえも、「机」まで潜ってくる間に飲み込んだり浸食してきたりした、雑多で余計な記憶の中で行う羽目になる。そうした余計な記憶と、油断するとなだれ込んでくる海水をかき分けながら、友人と雑談を楽しむための思考を巡らす必要がある。

 これらは大変な労働だが、それをやらないとどうなるか?
色んな記憶がごちゃ混ぜになった海水の中で溺れ、自分が過去・現在・未来のどこに立っているのかすらも見失う。雑多な記憶の洪水の中で、次にやるべきことが何なのかすらも分からなくなる。

 だから、私は長期記憶が箱に収められた液体状の物質なのだと思っている。
そして日々泳ぎ続けて、泳ぎ疲れたり足をつったりした時には海で溺れて自分を見失う。
私は、日々そんな記憶の海の中で生きている。