生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

私に必要なのは懺悔

 自戒。私は被害者ではない。

 

 やはり加害者として糾弾を甘んじて受けるだけの土壌が、私の中には育っていない。それよりも、私はいかに自分の弱者性を押し出して同情を誘うかという方向に動いてしまいがちである。

 自分を卑下して他人より低い台に降りることで実際の自分との差から目を背けるためで、裏を返せば他人を信用していないからだとも言える。そこまでしないと他人とは関われない、と。

 

 実際弱い立場にはあるのだ。私は周囲に比べて貧しい環境下にあり、生活には余剰なんてどこにもない。なのに不運な/幸運なことに私は周囲の人間に、今の自分ではとてもつりあえない程に恵まれてしまった。

 それまでに感じたことのなかった喜びを感じた。同時に劣等感も。

 

 その劣等感は卑下、被害者面に繋がっていくことになる。だけども実際には傲慢に、被害者ぶりつつ他人から簒奪していたに過ぎない。

 私は被害者ではない。にもかかわらず被害者であろうとした。単に怠惰によって。

 

 

 懺悔。私は被害者の皮を被って他人を傷付けた。

興味の話

 他人に興味がある、と、他ならぬこの自分自身が誤認している時点でズレていた。

自分以外で最も近い他人であるところの家族には、興味を抱ける程の深みがなかった。それと血が繋がっている私もまた、同程度の深みしかないのだろうと分かってしまうことも、自分から興味を失わせるのを促した。

 

 そもそも、他人に対して、興味があるとかないとかが分からなかった。みんな同じに見えたから、興味もくそもないだろう、と。

だけどそれはただ単に、みんなに対して興味がないだけだった。興味を抱けないから、“尊重”に限度が生まれる。一定以上の尊重をできなくなる。

 

 私はコミュニケーションが苦手で、他人から馬鹿にされるくらいには会話ができない。そこそこ関係性の深まった間柄における対話なら、多少それっぽくできるけど、会話はどうにも苦手だ。途中で馬鹿馬鹿しくなってしまう。

「(任意の言葉)」「(反復)(問いかけ)」「(答え)(問いかけ)」みたいな会話の様式を、ずっと同じ場所で足踏みしているように感じてしまう。

それ自体にちょっとした意味があることくらいなら私にも分かる。そういう問い・答え・反復の繰り返しが出来る、ということによって「少なくともそれぐらいの社会性と相手への関心はある」とお互いに確認しあう行為だと認識している。

でも、私にとっては嘘のように思えてしまって駄目だ。

関心があるのなら、その問答をさっさと終わらせて対話の段階に移行してしまいたくなる。関心がないと何を問えばいいのか分からなくなるし、どうでもよくなってくる。

 

 先に述べた通り、私は他人に興味を抱けないでいた。そんな中で人と関わる/会話をするのは大変な苦痛であった。人間として扱われるためには、それが必要であることを分かっているから、おいそれとやめることも出来ない。

 何なら、私は他人どころか何にも興味を抱けないでいたのだと思う。人にも、コンテンツにも、景色にも。

何かに興味を持つには、私の生きた環境は様々な面において貧しすぎた。余剰/余裕がなかった。

本来そこにあるべき余剰は自分の多動と環境に奪われ続けていた。飛び散った思考でその環境をこなしているだけで精一杯で、何かに興味を持つ余裕もなかった。

確固として趣味と呼べる物を何一つ持てないまま、生活をこなして今に至る。

 私にとって大きな区切りであるところの大学入学ですらそれを根本的に変えることは出来なかった。

家からは少し距離を置けた分、負担は軽くなったけど、次は周りの人間に比べて自分のレベルが極端に低いことが負担になった。

人付き合いの延長上で、趣味っぽいものはいくつか出来たけど、今に至るまで継続する程の熱量を抱けた物はなかった。

 みんな同じに見えて、どうすれば尊重したことになるのか分からない状況が続いた。興味のなさを隠そうとは努めてていたけれど、隠し切れてなかっただろうと思う。失礼なことをした。

 

 先日ちょっとしたことがあって、私のことをよく見ていた人から、

「君が本当に心を開いているのは誰々と誰々と誰々だろう」と言われた。それは過不足なく的中していたので感心したのを覚えている。

そして考えた、私にとってその人たちとそれ以外の人たちとの違いは何だ、と。やはり興味の有無だった。挙げられた三人に関しては一方的とも言える程の興味を抱いている。だけど、それ以外の人たちに対しては何もない。それ以外の人たちに関して、“もっと知りたいと思う何か”を感じることが出来ないのだ。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、どうでもいい。これを書いている今でもどうでもよくって、だけども興味のある人たちとの兼ね合いもあるから、と社会のようなものをやっているに過ぎない。

 私がいつまで経っても発達マラソンでゴール出来ないのは、興味を抱くのに必要な余剰を充分に持てていないからで、これは今後どうなるか分からない。生活がルーチン化して余剰が増えるかもしれないし、複雑になって余剰が減るかもしれない。多動が無駄に余剰を占有する状態だから、どうなろうが常に余剰は少ないままかもしれない。

 何にせよ、少なくともまともに楽しく本心を偽らず生きるためには、何かに興味がある状態を維持しなければならないのだろうとは思う。有機・無機問わず、それが持続可能なものであればなお望ましい。有機であれば相互の尊重が、無機であれば自分の努力が、それを持続させる原動力になる。

 

 何かに興味を持ちたいものだ、依存抜きに。

ボサボサ頭を叩いてみても社会復帰の音はしない

 うんうん唸っている。そろそろ社会復帰しなきゃいけないけど大丈夫なんだろうか。他人事。

 

 何度考え直してもあれは確かに虐待だったし、今自分が生きているのは運が良かったからなんだなぁ、と、傍聴についての記事を読んで思った。

 昔私に包丁を投げてきた母親も、昔私に竹刀を叩き込んだ父親も、色々と限界だったんだろう。母親が中学生の私に「離婚しても良い?」と聞いてきたのは、それを自分で判断する程の力すら残っていなかったんだろうなぁ。

結局別居という形で両親が距離をとってくれたおかげで今私は(精神面に問題を抱えつつも)生きているのだろう。あのまま世間体やら何やらを言い訳にして、両親が無理して同居を続けていたとしたら、一番力の弱い私はとうに死んでいたことなんて容易に想像が付く。

 昔のことを考えていたら、私は育てられていたのではなく養われていたのだなぁ、と、色々なことで周回が遅れている現状についてちょうどいい理屈を思い付いた。

そういうことならば、「お前は本当に物を知らない子だねぇ」という父親の言葉も伏線として回収出来る。彼は私を育てなかったから、子供にそういうことを言えたのだろう。お前が馬鹿であることの責任は自分にはない、と。

大変ですね、育児……。

 

 私が何度も懲りずにここに被害者面して書き殴っているのは何でだろう、いい加減に飽きろよ(自分)、と思っている。やはり他人事のように。これに終わりを与えられるのは何だろう、とも。

きっと私は誰かから「それならしょうがない」とか「これからは○○(任意の行動)すればいい」とかの甘ったるい承認を得たいだけだ。二十代にもなってそれはどうなんだろう……と自分で自分にドン引きしてしまったけど。とにかく救われたいんだなぁ……みたいな……。だけど救われるために必要最低限の価値観すら備わっていない、という詰みっぷり。うーん。

 

 育児とかいう人間を形作る基になるものを、個々人の経験だの民間療法だの、地域との関わりだののあやふやなものに任せてしまっているから安定した結果を生み出せないのだ。

せっかくAIとかが出て来たのだから、そこに(その時々の社会に合わせた)適当な指向性を持たせて一定の理論で子供を育てられるようにすればいいんじゃないですかね、と。結果的にすばらしい新世界になるけど、あれもあれで内側から見れば結構安定してはいると思うのでいいんじゃないかしら。

 

 何だかとにかく育児を画一化しようぜ的なSF調の逃げに走ってしまったけど、今の私にはこれが限界だ……。変えたいなぁ……過去。

顔から火が出て絶賛燃焼中

 “プライド 低くする方法”とかでググり始める末期ぶり。手遅れ感も相まってどうしようもなさに拍車がかかっている。

 

 自分のあれやこれやについて、「プライドが高い」で説明が付いてしまうことがそこそこあることに気が付いて、恥ずかしさのため息をついている。

なるほどなぁ………………………………。なるほど………………。

 自分の実際に比して自分の理想が高すぎるのだ。現実を受け入れられなくて、「こんなはずじゃない」とか思っちゃっている。表面的には謙虚に振る舞えても、内側では言い訳をしちゃっている。

気が付いたら無性に恥ずかしくなってきた。生き恥をさらしている感じ。もはやハラキリしかねぇ。

 頭が破裂したのも良くなかった(破裂して良かったことなんてひとつもないけど)。

頭の悪さに正当(な/っぽい)言い訳を出来るようになってしまって、「本当なら○○だけど病気の生で出来ていないだけ」とかのたまえるようになってしまった。もうおしまいだ。

 プライドが高いから興味のない他人からの好意を受け入れることが出来ない。おおう…………書きながら自己嫌悪に陥っている。プライドが高いから無駄に精神を病むんだな。プライドが適正なら現実と理想との乖離で苦しむことはない。はず。適正だったためしがないから分からないけど。

 高いから高嶺の花にも平気で手を伸ばす(そして当然のように玉砕する)。自分が弱者であることを直視できず、無理な背伸びをして足の指を痛める。都合のいいところで「よそはよそ、うちはうち」論理を持ち出して自分を正当化する。

 こんなどうしようもない自分でもひどい迫害を受けずになんとかここまで生きてこられたのは周りの人たちの優しさがあったからだ、という気付き。ありがたいなぁ(同時に恥ずかしいなぁ、とも)。

 すぐに真面目に考えることを放棄して茶化してしまう。何故なら現実の自分の能力ではまともに思考して答えに辿り着くことが出来ないと分かっているから。

 身の丈に合わない行動はすべて「こんなはずじゃない」と「こんな自分じゃ恥ずかしい」からきているんだなぁ。もう恥ずかしさが限界突破して他人事みたいになってきた。

 そしてこのプライドの高さだって説明/言い訳しようとすれば出来てしまいそう。

でもここで言い訳をせずに自分のプライドの高さという業火に身を焼かれることがとりあえず今自分に出来ることなんじゃないかな…と思ってメラメラ焼かれている。顔から火が出そうだ。

 何かを考えているふうに装っているのだって自分はこうじゃなきゃいけない(/恥ずかしい)みたいな自意識があるからじゃないか。

 自分を卑下するのは他人から本当の欠点を予想外のところから指摘されて傷付いてしまわないように予防線を張っているだけ。むしろ「自分の欠点を自覚できている」だなんて考えちゃっている分たちが悪い。

 自分が好意を向けた人から拒絶されないように、自分から(求められてもいないのに)弱さをさらけ出すのだって予防線だ。拒絶されるだけの自分を直視できないくらいプライドが高い。その他人にとってしてみたら一方的な災害じゃないのか、それ。

 

 

 もういっこ余計に歳をとる前に気が付けて良かったと思うことにする。いやぁ恥ずかしい。

知らなかった言葉をそのまま受け入れるのは怠慢だったなぁという自戒

 被害者/弱者ぶるのに慣れきっちゃったんだろうな、と。

 

 それっぽくて何か言っているようで何も言っていない言葉、“自己肯定感”についての気付き、メモ。

 「自己肯定感が低い」が、「可哀想」みたいなニュアンスを帯びている。悲劇の中にある、みたいな感じを出している。

 馬鹿だから最近になってその言葉を知って、なるほど!といって馬鹿みたいに使っていたけど、よく考えたら“自己肯定感”って空虚な言葉じゃないか、みたいな。ちょっと道を外しちゃった我々に、それっぽい言い訳を与えてくれているから深く考えていなかったけど。

 私の認識としては、自己肯定感とは「自分をありのまま、受け入れること」だ。調べてないから正確な定義ではないかもしれないけど、少なくともTwitterを見てるとそんな文脈で使われている。

自己肯定感について、それ自体の定義を吹っ飛ばしてその高低にのみ目を向けている風潮はよくないんじゃないか、と、自戒を込めて。

「自分をありのまま受け入れる」なんて、高いとか低いとかじゃなくて、するかしないかじゃん、と。

そして、しないってことはただ単に「ありのままの自分を受け入れられない」ことに過ぎず、そこに育ち云々とかはあんまり関係ないだろう。

しかもそれってただ「現実を見られていない」だけで、つまりは「そこに現に存在している自分を直視出来ていない」に過ぎない。

それって、自分の理想像しか見えてなくて、現実と理想との乖離を受け入れられていないだけじゃん、と。

元も子もないことを言うと、「自己肯定感が低い」というのは「プライドが高い」だけ。でもそれだと可哀想な言い訳が出来ないから、ぼんやりとそれっぽく「自己肯定感が低い」と被害者面しているのだ。

 

 ありのままの自分を受け入れるかどうかに悲劇とか生育環境の悪さとかを絡める必要はなく、そこにあるのは単にプライドが高すぎるってことだけだな、という自戒を込めた備忘録。

全てを言語化して管理すべきか、曖昧なまま持ち続けていられる精神を習得すべきか

 あまりにもとっちらかってきて目汚しになってきたから移行。

 

 そんなに思い入れのないはずのメールマガジンに存在を裏付けられている感覚。

 会員登録のついでに始ま(/め)るメールマガジンの配信。社会と断絶した自分にとって、それはボトルメール的な立ち位置から“社会から自分への数少ない干渉のひとつ”になっていた。いつの間にか知らない内に。いや、もう限界じゃんそれ、としか思えない。

「何もない自分だけど、そんな自分でも確かに他者から干渉を受けている」ということのより所をメールマガジンに求め始めたのはだいぶ末期ですね、と他人事のように思う。他でもない自分のことなのに。

何だかそんな自分のことすら気持ち悪く感じられてしまって、自己を肯定どころか許容出来なくなってきた。他人事みたいに思うのに、ゼロ距離でその生々しさを(一方的に)開示される感じ。同時に逆張りを想起するが故の気持ち悪さ、みたいな。生きている限りその景色は強制的/一方的に押し付けられる。それに一瞬でも気持ち悪さを感じてしまったらおしまいじゃん、と。いや、普通におしまいなんですけど。もっと昔に克服しておくべきだった、“もっとも身近な他者の気持ち悪さ”に今更やられている。というかそもそも自分のことを他者だと気が付けないでいたから駄目だったのだろう。操作できるはずの“自分”を管理しきれていないような。手綱に振り回されるような。自分を、頭のてっぺんから足の先まで自分の思い通りに出来る気になれない。使い慣れない棒で操る人形という感じ。

 何というか、生々しい気持ち悪さと同時に、少なくとも管理できてなければいけない自分自身すら管理しきれてない未熟さを感じる。そんなんでよく人間を名乗れてるなお前。

 他人事みたいだから上手く操れなくて、上手く操れないせいで思考を制御できていない、思考を制御できていないせいで社会を出来ない、これだ。

 共感しすぎてしまうのは、自己と他者との境界線が曖昧だからか。他人みたいな自分、他人事と思えない他者。その構造が歪みを生んでいるのだろう。きちんと掌握していないといけない自己が、手から放れている。

 

 今日の外出───何の目的もなく、ただひとりでうろつくだけの───だけで思考をこんなにも刺激されるなんて、普段はどれだけ刺激のない生活をしているのだろうか、と呆れてしまった。低刺激な毎日に慣れきってしまうと、少し強めの刺激でもかき乱されてしまう。修行が足りん。

現実的に考えれば、“それまで”がそのまま続いていくことくらい分かってしかるべき

 まだ若造とはいえ、何をしたら何が起こるかくらいは想像できるつもりだ。

 

 短い人生の内に「これはこんなもんだ」みたいな学習をしたものがいくつかあり、それらは現在の諦めに繋がっている。「どうせそんなもんでしょ」とも言う。

 それまでが上手く行っていないのに、それと連続した人生が(外から大きな介入もなしに)ポジティブに変化すると信じられるのは頭が狂ってしまった人だけだと思う。

 自分の内にある能力だって、それなりの歳になれば大体塩梅が分かってくる。出来る/出来ない/出来そうな/出来なさそうなことだって予想が付く。失敗して立ち止まっている暇なんてないこの世の中で、リスクのあることをわざわざ選び取る余裕なんてない。

 成功することよりも、失敗しないことに軸を置かないと、息をするだけで失敗する私みたいな不良品は際限なく転落していってしまう。私は成功を求める段階に在らず、失敗から身を守ることしかできないのだ。50:50で得られる成功に賭ける余裕は(少なくとも私には)ない、ということを今の私は知っている。

 

 仮に新しい環境に身を置くことになったとしても、なんとなく予想はつく。どう転んでもああ、やっぱり自分には生きるのが向いていないんだな、と思うだろうことが分かる。

 人生はいつだって、それまでと同じように、現実らしく現実味を帯びて流れていくだけだ。

運が良ければフラットに流れていって、何かが良くなることはないけど、運悪く何かが悪くなる可能性だけがある。そういうことだと、私は知っている。

幸せの裏には何かがある/無償の幸せなんてないことを、知っている。何にも悪いことをしていなくてもぶつかる不幸を、知っている。

 

 このままじゃ今までと変わらない、と知りつつ、その“このまま”を変えるだけの気力が湧かない状態になってしまって、「じゃあもうこれはどうにもならないな」と、とっくの昔に諦めた。

 私は、“何かをポジティブに捉える若さ”を無理矢理捻出しようとしても出来なくなるほどの失敗を重ねすぎた。

 そうやって「予想が付く」「知っている」と諦めているのだって、そういう“もう年相応に諦める力を持つ自分”をやっているだけだという気もする。そうやって子供の自分を否定するために大人ぶっているだけな気さえする。

いったい何なんだ。気を抜くとどんどん思考がメタになっていく。自分自身/本当が遠くなっていく。

 

 先日、ひょい、と、ひとつの目標を達成してしまった。ただ運が良かった、というだけで。

 努力次第で叶う/叶えられる可能性の低いものは目標ではなく夢なのだと考えると、私にある目標はあとひとつしかない。しかもそれだって努力次第でどうにかできると(自分だけが盲目的に)信じているだけで、客観的に見たら夢でしかないのかもしれない。

今の私にはその目標しかない癖に、「それが本当は目標とは言えない、夢でしかなかったということ」/努力で埋められない才能のなさに気が付いてしまうのが怖くて、その目標に手を着けることすら出来ていない。そこら辺に落ちていた木の枝で、遠くからこわごわと突っつくことしかしていない。

 

 

 諦めがカンストし、その目標すら放棄してしまう日までダラダラと生きているに過ぎず、やるべきことから目を背けて、先送りして、ただ食べて寝るだけのタンパク質の塊だという自覚が湧いてきた。

 私は生きているんじゃない、ただ死んでいないだけだ。