生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

おととい、昨日、今日と過ごしてきて

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ふふふ、おいしかったです。

この三日間を過ごしてきて思ったのが
「“薬として飲む”精神安定剤の薬効にはやっぱり限度があって、“人と会い、関わる”精神安定剤の薬効は薬の限度をカバーしてくれるなぁ」ということでした。

そして驚いたのが
「私が自分では気が付かない、私自身の書く文章の特徴」が存在する、ということでした。指摘されてはじめて知りました。
(意識してないし、この書き方が一番楽なだけなんだけどなぁ…)と思っていただけに、余計驚いたし、
『話を聞いてたら、文章のルーツを感じた』という意見が面白かった。

そして趣味の先鋭化・専門化の話に関連して。
世界で1番、である必要はなくて。
その人の中で1番、その人がこだわりを持っているコンテンツに関して
“その人の口からつらつらと流れ出す話”に面白さを感じていたのだなぁ、と、「今までの人生」と「関わってきた人間」を思い返してみて思いました。この年になってそれがようやく腑に落ちました。

その上で思ったのが
「好きなコンテンツが被ること」よりも
「好きなコンテンツに対して取り組む姿勢が似通うこと」
こそが大事なことなのかもしれない、ということです。
自分の住むコンテンツではなくても、
「自分と似通った姿勢で好きなコンテンツに打ち込む人の言葉、というフィルターを通して“その人の住むコンテンツ”を見ること」で知らないコンテンツであっても何かしらを理解できるような気がするし、何なら
「自分と似通った姿勢で好きなコンテンツと向き合うような人が打ち込んでいる、その人の好きなコンテンツ」
に興味が湧くことがあります。
自分は知らなかったけど、そのコンテンツにはそんな楽しみ方があったのか、と思うこともあります。

別に特定の何かに関して、と限定はしませんが、自分の住んでいないコンテンツの中で踏み込めていないコンテンツの中には、きっと
「楽しみ方がよくわからないから」みたいな理由で踏み込めていないコンテンツもあるだろうし、そういうコンテンツでも
「楽しみ方さえ分かれば踏み込める」可能性がありそうな気がします。
もしその可能性に気が付かないままにそのコンテンツをスルーしてしまっているとしたら、それって結構もったいないことなのではないでしょうか。

だから今日話して、「好きなコンテンツへの姿勢が自分と似通っていること」はある種の信頼だと思いました。
「似通っているから」元々興味がなかったコンテンツについての話であっても安心して聞くことができるし、
「似通っているから」相手に対して自分の好きなことに関して自分の話しやすいように話せるし、
というのは、ちょっと重たい言葉ではあるけど、多分「信頼」の一種なのだと思います。

うわぁ…もうこんな時間かってなったので、キリが良いところで締めます。新学期がんばるぞ。