生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

長文を書き続けてしまうのは自分の一種の悪癖だという自覚をした

私はどうも、即レスポンスを求められるような状況でのコミュニケーションが苦手らしい。

相手によって即レスポンスが出来るかどうかが違うのは、きっと
(コミュニケーションが上手くいく相手の場合は)相手が私のコミュニケーションの下手さを理解した上で私に歩幅を合わせてくれていて、それが上手く作用しているから、だと思う。

私は勢いづくと喋りすぎることがある一方で、逆に全く喋れなくなることもザラにある。だから、コミュニケーションをとるのが本当に下手くそだ。

話は少し変わる。

高校の時、私は数学人間だったし、哲学人間だったし、考察厨でもあった。そう、典型的な“友達を作りにくい人間”である。
そんな私が“そんな私”のままで校則すらない高校で生きてこれたのは、私と同じベクトルで私と同じくらい考え込む、私と似通ったタイプの馬鹿がいて、そいつと連んでいたから。
そいつは馬鹿をこじらせて、附属校でストレートに大学に上がる権利すら投げ捨てて、東大に(浪人しながらも)行った。
そんな馬鹿(以後Aとする)と私は、考えても考えても答えになんて到底たどり着けないような問題を、議論、だなんて高尚な行為とは言えない代物だったけど、とにかく“その問題について話し合って”いた。
でもそれは、
“顔をつきあわせて、直接”行った話し合いではない。
SNSで鍵をかけてお互いに閉じこもって、閉鎖的なSNSを通して間接的”に話し合っていた。

何故そんな回りくどいことをしていたのかって?
それはAも私も日陰者で、私が女でAが男だったからだ。

うちの高校は共学で、カップルなんて山ほどいた。いたけど、Aは
“女の子となんて楽しく(流行りのことについての)会話なんて出来ないような変人”として認識されていたし、
私も私で
“生徒会で活動していて、女っ気のない変人”として認識されていた。
そして互いに
“勉強が出来るからこの学校に居続けることが出来ているような(他に面白味もない)人間”として認識されていて、その二人がリアルで会話なんてしようものならそれだけで即座にウェイ層にからかわれるだろうことなんてお互い容易に想像できていた。
だから、回りくどい手段を用いて関わり合っていた。
そこに恋愛感情はなかった。相手から私にも、私から相手にも、なかった。
お互いにお互いを尊重しあって、理解し合って傷を舐め合うだけの関係性(一時期周りの日陰者たちのせいでおかしな関係性になりかけたけど)だった。

そしてAと私は、お互いのSNSアイコンに向けて、様々な問いを投げ掛け合い続け、それに応え合い続けた。
それは
単に数学についての話だったり、
哲学的な問いだったり、
社会についての話だったり、した。
時に白熱してSNSで規制を食らうことも多々あったため、規制時用のアカウントへ移動しながら、そこでもまた掛け合いと、相手の返答の矛盾点に対する指摘を続けた。

そんなコミュニケーションを続けていたら、まず「一般的なSNSに存在する、ある一定の制限内にまとまる文章を作る技術」と、
「文章を見返して推敲して、相手に矛盾点を指摘されないようにする技術」だけが洗練されていった。
それらが洗練されていった一方で、
「フランクな、誰にでも適用できるコミュニケーションスキル」はどんどん衰退していった。
うちの高校でよく発生する、
“何かに先鋭化・専門化された人間”はこのような過程で発生するのだと思う。受験する必要がないから、受験に割かなかった労力を傾けて、いくらでも好きなことで尖ることができるのだ。

そして最終的に完成したのは、私(たち)の場合、
時間をかけて考えた長文を出力する人間だった。
こんなものは到底「コミュニケーション」だなんて呼べない。だけど私たちは、こうやって「私たちなりのコミュニケーション」の中で生きてきた。

だから、なのかもしれない。
私は
“自分が自分の中でまとめた意見やら言葉やらを話すこと”が好きな一方で、
“他人がその人自身の中でまとめた意見やら言葉やらを、その人が熱っぽく語っているのを聞くこと”も、自分が話すのと同じかそれ以上に大好きなのだ。

その人がどういう思考プロセスでその答えにたどり着いたのか、証明のように語っているのを聞くことが好きだし、
自分が全く分からないジャンルで、自分には理解できないようなことがあっても、その人に聞けば
“その人の中で確立された意見に基づいた答え”がきちんと返ってくることも好きだ。

だから「話変わるけど話しても良い?」と言われるのは、その人が話を変えてまで話したいことなのだと思ってわくわくするから楽しく/それを自分に向けて話したいと思ってくれたことを嬉しく思うし、むしろどんどん話を変えてほしいし、
その人の中にある“誰かに聞かせたいこと”を聞かせてほしい。
私だって“話の流れを変えてでも話したいこと”が自分の中にあれば、何なら「話変わるけど…」なんて断りも入れずに何の脈絡もなくその“話したいこと”をぶっ込んでしまうから(そんな自分、そもそも人間としての礼儀がなっていないのでは?)。

私には即レスポンスを返せるような能力はないけど、ひととおりその話を聞き終わった後に自分の中にわき起こった共感の気持ちや疑問、その話を前提にした意見とかを自分なりの言葉で述べることなら出来る。

やっぱり結局は相手が私に何を求めているかに繋がってしまうのだけど、
「ただ聞いてほしいだけ」なのであればそれなりの対応をするし
「一緒に考えたい」のであればそれなりの対応をする。
私に「馬鹿としての立場」しか求めていないのならば、私はただただ傾聴する木偶に徹するし、
私の「意見を言う権利を尊重してくれる」のならば、多少時間はかかるし、満足させられる用なことは言えないかもしれないけど、私は足りない脳味噌をフル回転させてそのことについて考えをまとめて、その考えを述べる。

私が長文を書き続けてしまうのは、そういう理由があるからかもしれない。
「いつか誰かから聞いたこと」に対する、私なりの意見を、(その誰かに返せずとも)私が納得できるまで/自己満足できるまで書きながら考えてしまうから、なのかもしれない。
黄色いアイコンの、あれだけとっちらかった呟きの羅列は、誰かに向けている、というよりは自分の脳味噌に向けているものが多い気がする。
勿論、誰かに向けたツイートをすることはある。
あるけど、自分の中に残っていて、まだ自分が納得できる形でのアンサーを見つけられていない「いつかどこかで誰かに問いかけられた/意見を述べられたこと」に対するアンサーを見つけるために自分の脳味噌に向けたツイートをすることもある。
でもそんな自分の脳味噌に向けたツイートであっても、もしそれを見た人がそのツイートに対して
「自分はこう思うんだけど」とか言いつつその人なりの意見を教えてくれたなら、それはそれで自分の中でこんがらがった思考をどこへ向けるか?を考える指標に出来て嬉しいし、指標にするしないに関わらず反応してくれたことに対してそれもやっぱり嬉しいな、とも感じる。

無くて七癖、とも言うから、多分自分のこの長文を書いてしまう悪癖は自分の癖として向き合っていくことになる気はする。
今の時点では悪癖だけど、「これは自分の(悪)癖だ」と自覚して向き合っていけば、いつかは「悪癖」からただの「癖」になる日が来るのかもしれない、ということを期待している。