生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

自分が文章を書き続ける理由について考えてみる

 昔から、文章を読むことは嫌いではなかった。
むしろ好きな部類に入っていたと思う。

 でも、私は文章を読むことが好きだったのに/というかむしろ好きだったからこそ、
“文章を書くこと”に対するある種の苦手意識のような物があった。その壁は素敵な文章を読む度に高く/厚くなっていった。
 それでも私の性格として「オーラルコミュニケーションがとても苦手である」ということが根底にあったから、私は徐々に、苦手ながらも拙い文章でコミュニケーションを試みるようになっていった。
その、《人に言わせれば“証明的”な文章の書き方》が
「○○という理由があるから××」
「××に至った理由を明確にしないとむずむずしてしまう」
「どうして、と問い掛け続けなければ気が済まない」といった、今の思考のフォーマットのルーツにもなっているのだと思う。
これは自分で意識してこう考えよう、として考えている訳ではなく、そういう思考ルーチンが身体に染み着いていて、何を考えても思考がそのルーチンに通されるようになってしまっただけなのだ。

 以上が、私がこんなに回りくどい考え方をしたり、文章を書くようになったりした原因だろう。
だけどこれは、“書くようになった原因/原点”であって、“今もなお書き続けている理由”ではない。

 理由。
 その理由について、
「将来創作をしてみたい、という夢があるから」だとか
「暇だから」とか
「忘れっぽいから、その備忘録として」とか、色々な“それらしい理由”を取り繕うことはいくらでも出来る。
確かにそのどれらも「理由の“一部”」ではある。でも、それらは単なる“一部”であって“本質”ではない。

 じゃあその、「理由の“本質”」とは何なのか。
 それは、まだこれから自分が模索していくような部類の問題なのだろうけど、それでもあえて
「今この瞬間の私」の文章を書く理由の“本質”を考えてみようとすれば。
 考えてみようとすれば、色々な部品が散らばってはいるけれど、やはり一言で“承認欲求”としてまとめ上げられてしまう感情なのだろうな、これは。
 大雑把に/一言に“承認欲求”とまとめてしまったが、その欲求を構成する部品には色々ある。
「“自分がこう考えて行動していること”を誰かに知ってほしい(あるいはそれに対して理解や共感をしてほしい)」
「こんな人間が、表に出ていけるような訳でもない人間が、それでも確かに《この世界に存在しているという事実》を爪痕として残したい/存在することを許されたい」
「自分のこの思考の組み立て方を知ってほしい」
「自分の考え方やルーチンを通した文章(言い換えると私の目に見えている世界)に対してのアドバイスやフィードバックがほしい」
そして最終的には
「どうすればいいのか/どうすればよかったのかが、自分には分からないから一緒に考えてほしい」に至るのだと思う。
 自分の損傷した脳のワーキングスペースには限界があるから、これを読んでくれあ人間の脳のワーキングスペースを間借りしたい、と言い換えることも出来そうな気がする。

 それらが(やはりというか何というか、消化しやすい単語へ置き換えると)“承認欲求”へと収束していって、“今もなお書き続けている理由”に繋がっているのではなかろうか。

 脳の機能が損なわれてしまっているから、きっと以前書いたようなことと同じことを書いているかもしれないし、これからも書くかもしれない。
文章を書くことが苦手だから、構成なんてめちゃくちゃな文章を書いてしまうことが多々あるかもしれない。
でもそうやって、蝸牛の歩みではあるものの、一歩一歩進んで行きたい/こんなどうしようもない自分であっても前を向いて歩んでいきたい。

 芋虫のように地を這いずりながら生きている私には、そんな前の向き方しか今は分からないから、今はそうやって前を向いて生きている。