生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

長い間、自分には何もない、という思考の檻に閉じ込められている。

 普通の人間に対して「自分が“周回遅れ”なのではないか、という劣等感」を抱えながら、私は生きている。

 この感覚に対して“周回遅れ”という名称を与えたのは、Twitterに流れてきたとあるツイートだった。それを見て以来、
「私は周回遅れなのだな」と思いながら生きている。
と、ここまで書いてから(この内容、以前書いた気がする)と思ったけどしゃーない、このまま突っ走る。

 分からない、分からないのだ。

 王は人の気持ちが分からないし、私にも人の気持ちが分からない。

 私が楽しいと感じる事柄を、人も楽しいと感じるのか、とか。
 私が不快に感じる事柄は、人にとっては不快ではないのか、とか。
 私の根底にある、貸借一致の考え方からくるのだけれど、どうして何もない上にハンデすら抱えているような(0以下の価値の)私と付き合ってくれる人がいるのか、とか。

 特に最後に関しては、本当の本当に分からないのだ。
だから、何で付き合ってくれているのか、が分からないから、私にはどこまで許されるのか、を見失ってしまうのである。

0以下の私と、(私から見て)1以上の相手と。
貸借一致の概念からするとありえない組み合わせだ。
そしてその、1以上の相手に会った後に自分の中に(楽しかったな)という感情/感想が残ると、罪悪感に似たものを感じてしまう。
私からは何も与えることができていないにもかかわらず、自分に対して楽しい、という感情を与えてもらったことに対して、どうして?と思ってしまう。
相手が与えてくれたものに対する対価を、私は何一つ与えられないから。

 だって、
口は下手だし
変な相槌を打ってしまうし
喋りすぎてしまうし
教養もないし
ろくな情報すらも与えられないし
喋ったことを忘れてしまうことがよくあるし
同じことを喋って呆れられることもよくあるし
だからといって聞き上手な訳ではないし
身嗜みすらきちんと整えられないし
少し一緒に歩こうにも歩きすら下手だし。

 周りの人に合わせようと思って背伸びをしては、失敗して迷惑をかけるし、
その失敗によって直接迷惑をかけなくても、失敗した後に落ち込んで暗いことしか話せなくなるし。

 親からも
「馬鹿な子」と言われるような人間だし
「頭が悪い癖に一丁前に大学に進学して親にお金をかけさせる人間」と言われるような人間だし
「洋服がださい」と言われるような人間だし
「どんくさい」と言われるような人間だし
「お前のような人間と関わりたい人間なんて存在しない」と言われるような人間だし
「可愛い顔をしていない癖に愛嬌すらもない」と言われるような人間だし。

 自分と関わるメリットって何なんだろう、と考えるのだ。
私が身の回りの人間と関わる時に「楽しい」と思うから余計に、だけど、
一方で身の回りの人間が私と関わる時に
“身の回りの人間が私に対して時間を割いてもいいと思える《何か》”が私には分からないから、私は考え続けている。

 20年強考え続けているけど、未だに答えが見つからない。
だから、なのかもしれない。
たまに「自分の価値観の中では悪いという部類に入る行為」を相手に対してしてしまうのは。
そしてその後にやっぱり(悪いことをしてしまったなぁ)と思い悩むのは。

 自分はあなたの貴重な時間を割くような価値すらもない、マイナスの人間ですよ、と相手に知ってほしいから。
先に列挙したマイナス要素を受け入れてもなお、私と関わってくれる人のことが私は心から大好きだから。
 だからこそ、こんな私のために時間を割いてはいけない、と思うのだ。早く私から離れた方が幸せになれる、私から離れた方がいい、と思うのだ。そして、私が私の中で悪いな、と思う行為を相手に行って、離れてもらおうとするのだ。

 こういう生き方しか身につけてこれなかったから、私の周りからは私の大好きな人間たちは大体離れていってしまった。
今もなお関わってくれているのは、こんな私のどうしようもないマイナス要素を受け入れてくれる人間たちだけだ。
 そんな人々が存在するという奇跡にすら、私は引け目を感じる。そうしてまたいつものように「私の価値観では悪いとされること」を相手に行って、離れてもらわなければならない、という使命感を感じる。
その相手と関わるのが楽しければ楽しい程その使命感は強まるし、同時に手放したくなさも感じてしまう。

 こんなにも私に関わってくれて、楽しませてくれる相手なら、私と関わる時間で私と関わるよりももっと楽しいことが出来るはずだ、離れてもらわなければ申し訳ない
と思うのと同時に
 こんなにも私と関わってくれて、楽しませてくれる相手と関わり続けたいし、もうそういう相手がいない状態には戻りたくない
というエゴを抱いてしまうのだ。
その使命感とエゴが、矛盾しながらも同時に自分の中に存在するのが、私はとても苦しい。

 そういう相手が好きだからこそ、私みたいな人間と関わってはいけないと思いながらも、同じく相手が好きだからこそ、私は関わりたいと思ってしまう。

 文章にしづらいけど、文章にするとそうなると思う。

 自分がマイナスしか与えられないから、関わりたいと思う相手への関わりたいという気持ちが強まる度に
「どうして?という疑問」と
「何も提供できないことに対する罪悪感」が強まって、
 その一方で
「私が相手と関わり続けたいから、相手が関わりたいと思えるような人間になりたいのに、どうして関わってくれているのかがわからないことに対する危機感」と
「少なくとも私自身はこの相手と関わりたいと思うからこそ、“相手が私みたいな人間と関わってもいいと思えるような存在”に私がならなければならない、という義務感」が強まる。

 私は、その間のコンフリクトに苦しみながら長い間生きている。
きっとこのコンフリクトは“私のような周回遅れ”ではない人間には生じないもので、周回遅れを取り戻さないと解消できないものなのだ。
私が“周回遅れ”だから、人が出来て当然のことすらできないのだ。と悩み、苦しみながら、私は生きている。

この問いはいくら問い続けても/考え続けても答えが出ない、という残酷な現実に悶え苦しみながら。