生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

無題3話

 現在まで浮上しきった彼女は、薬の効果で穏やかに眠っている。

急性期病院で出来ることを全て終わらせた後に、回復期病院に移動して本格的なリハビリを開始するだろう。

 ベッドの傍らには彼女の物らしい、通信機器がひとつ。この部屋は電子機器の持ち込みが禁止されているが、特別に持ち込みを認められている。

倒れた時からここに運ばれるまで、ずっと固く握り締めていたという。

それは地球上のどこにも居場所がないと思う彼女にとって、唯一の居場所にアクセスするために必要なデバイスで、心の拠り所だったのだろう。それは浮上と問答の過程からも何となく読み取れた。

だが、意識が朦朧としている中でネットワークに接続してしまうのは危険極まりない。
泥酔状態でコミュニケーションを試みるようなものだ。それは、彼女が意識して展開していたテクスチャすら剥がされて丸裸になった深層心理を全世界にさらけ出すような行為だ。

 それでも彼女はそのデバイスにしか依存できないのだ。

唯一関わりのある親族である父親には心を許せないにもかかわらず、親族以外は面会を許されない状況。

病院内の誰も彼もが自分を腫れ物のように扱う状況。

薬を飲んでも飲んでも頭痛と吐き気が収まらない状況。

ある時点からの記憶があやふやで、新しいことを覚えづらい状況。

何故か動かない左半身のせいで、好きな読書すらできない―――これは文庫本を握り締めて泣いているのを見かけて判明した―――状況。

サークルでのタスク―――これも浮上の過程で聞いたことだが―――を自分の意思とは反して放棄してしまっている状況。


 その全てが、彼女を追い詰める。追い詰めて、この環境下で唯一自分のにおい/パーソナリティーが染み込んでいるデバイスへと追いやる。

そこで何をやらかそうと、仕方がない。だって今の彼女には“それ”しかないから。

“それ”にしか逃避できないから。

 と、そこに『彼女の親類』を名乗る若い女性が現れた。
私は椅子から腰を浮かせて薬の栓を閉め、肩を揺らし、目を開けた彼女に来訪者のことを告げた。

 彼女は『彼女の親類』の登場に驚き、喜んだ。父親が来た時からは考えられない程に、全身で喜びを表現していた。

だけど、彼女はまだ浮上したばかり。現在まで浮上したとは言っても、まだろくに彼女の年齢にふさわしい言葉を発することは難しいだろう。

―――申し訳ない、役割なんです。私も同席して構わないですか?いないものと考えて結構ですので。

『彼女の親類』は私の発言に少し戸惑いながらも首を微かに上下に揺らす。私はその動作を同意と受け取り、記録を続ける。


一方彼女は無邪気にはしゃぎ、早口にまくし立てている。記憶には残らないだろう、取るに足らないことを『彼女の親類』に喋りかけている。

「今ってどういう状況?合宿はまだだよね?」

「え、というかどうしてここに来られたの?」

「ごめんなさい、私にも何も分からないんだ。ただ今分かるのは、左手が動かないことだけ。箏弾けないかもしれないなぁ、ははは」

 再度沈下してしまったのではないか?と疑うくらい、彼女の口からは彼女くらいの年齢の子が話すとは思えない程無邪気で、少し幼い言葉が飛び出した。

普段我々の前で彼女が見せていた姿は、

“彼女が彼女自身に求めていて、他人からも求められていると思っている姿”の一環だったのだろう。

『彼女の親類』の前で晒している姿が
彼女の本来の姿なのか、
それもやはり
“彼女が彼女自身に求めていて、他人からも求められていると思っている姿”なのか、
は今の時点の私には分からない。

ひとつ分かるのは、彼女が相対する人によって人格を使い分けていること。

――が彼女に引き寄せられたのも、これが一因なのかもしれない。――は分裂したパーソナリティーに引き寄せられる性質がある。分裂したパーソナリティーの隙間に入り込もうとする。

 彼女の口から流れ出す言葉は止まらない。
私はその全てを記録している。

「来てくれたのは××ちゃんがはじめてだよ!」

 それが不正確な言葉である、ということにはすぐに気がついた。だが私は口を挟まず、黙って彼女の言葉を記録する。
実は浮上処置の前、車椅子で彼女を沐浴室まで連れて行く途中で、『彼女の先輩』を名乗る男女とすれ違っていた。
その時彼女も顔を上げて彼らの顔を認識していた。でも、ただ一言「ごめんなさい」と呟いたきり俯いてしまった。
まだ今でも、『彼女の先輩』等の親族以外の人間には面会資格が与えられていない。だから、彼らが彼女の病室には入れず帰ろうとしていたところで偶然、すれ違った。

きっと彼女がデバイスで誰彼かまわず助けを求めてしまった結果だろう。その前にも、すれ違うことすら出来なかったものの、『彼女の同級生』を名乗る5,6人程の集団が病院を訪れていたという。


 彼女はその事実を、きちんと思考出来るようになった脳で認識して、罪悪感を感じるだろう。それを思うと“元に戻すことに対する疑問”が浮かばない訳ではないが、このままでいいはずもない。罪悪感を抱けるような、「人間」と言える状態にまで彼女を戻さなければならない。

―――おっと、そろそろ時間のようです。

 『彼女の親類』は元々面会時間の制限について理解していたようで、私が声をかけるとすぐに談笑を切り上げ、お見舞い品としてお茶を置いて帰って行った。

「……。」

 彼女はむくれている。楽しい時間を中断されたからだろう。やはり少し沈下したのだろうか。それともこれが彼女の素なのだろうか。


「喋るのを止めたら頭が痛くなってきたので、頑張って寝ますね。」


先程まで『彼女の親類』に対して発していた無邪気さはもう影を潜めて、“私に対する時の彼女”に戻っていた。

 でもやはり、頭痛のせいかすぐには寝られないようで、眉間に皺を寄せながら目を閉じている。
いつものように、薬を注入して眠らせることも考えたが、その前にひとつ質問をすることにした。

―――そういえば、今朝食べた物が何か、思い出せるかい?

彼女は目を閉じたまま答える。眠れないなら話していた方が痛みを忘れられるからだろう。

「思い出せるに決まってるじゃないですか。ほら、えっと……ほら……。」

予想通り、彼女は今朝食べた物すら思い出せない。沈下のみならず、記憶力の低下も同時に起きている証だ。

そこで彼女に、ある提案をしてみることにした。

―――思い出せなくて、もし他にやることもないなら、自分のやったこととか食べたことを記録してみないかい?簡単に言えば日記さ。日記をつけてみないかい?

外側からの記録には限界がある。内側からの記録は彼女自身の記憶力の強化に加えて、私の記録を補強する材料にもなる。

「それくらいなら…文章下手くそですけど……。」

彼女も彼女で、リハビリ以外何も出来ない状況に退屈さを感じていたのだろう、あっさり提案に応じてくれた。

―――そしたらここにノートと筆記用具を置いておくから自由に使ってくれ。君に関することなら、何を書いても構わない。

「はい。ありがとう、ございます……。」

ようやく眠くなったのか、絞り出すような声で礼を述べた後、彼女は寝息を立てて眠り始めた。

 ここからは内側からの記録も参照しつつ、記録を強化していこう。