生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

無題6話

 彼女は今日も無事に目を覚ました。

 今朝目を覚ましてようやく自分の置かれた状況を飲み込んだ彼女は、臆面もなく幼児のように泣き叫ぶ。

「もうこんなの嫌だ、思い通りに動かない手なんて、箏も弾けない手なんて切り落として義手を付けて」
勿論、そんな要求に耳を傾ける者などおらず。
きっとまだ状況を飲み込めてないのだ、と病室から漏れ聞こえた叫び声を聞いた廊下を行き交うスタッフたちは一笑に付した。

 私は、私の立場で抱いていいような感想ではないのだろうが、ここは彼女にとって過酷な環境だ、と思う。
彼女は認識した上で、泣いている。
認識したから、泣くことができている。
状況を飲み込めていなければ、きっと泣くことすらできない。彼女の涙は、回復の兆しでもあるのだ。
後でこの階の師長によく言い含めておこう。

 目を赤く腫らした彼女はベッドから起きあがり、まだ使える右手と右足を使い、不器用に車椅子を漕ぐ。アルコール臭の籠もった廊下ですれ違うスタッフたちは皆
「あらあら」と言いながら薄ら笑いを彼女に向ける。それでも彼女は、生きるための練習を続けていた。

 きいきい、と。ぱたぱた、と。
不器用な音を立てて病棟の廊下を行ったり、来たり、行ったり、来たり。
彼女はそれを、見ているこちらが悲しくなるくらい必死に、不格好に、練習を繰り返している。
そんな音を聞きながら記録を書いていると、その音はこの病室の前に来たところで止んだ。
彼女が戻ってきたようだ。

「全く何にも覚えていない、なんてことじゃないし、その記憶と自分をひも付け出来ない、なんてことでもないんです。
けど、なんて言えばいいんだろう。今の状態じゃない時の私の存在を実感できないんです。」

練習を終えて病室に戻り、ベッドに移った彼女は水を飲んで一息吐くと、何の脈絡もなく切り出した。

「というと?」

「ここに入院する前の記憶や思い出は確かにそこ…全部が全部、私の頭の中とは限らないけど…に存在していて、その全てにアクセスすることも出来ます。
でもその記憶が、今の私の状態からは想起出来なくて。今の自分が経験した事実だとは認識できなくて。」

記憶にアクセスする、という珍奇な表現に引っかかったが、それはきっと、入院した人なら“経験する事もある”ような感覚ではあるのだろう。無意識下で、元気だった頃の自分と今の自分を切り離す事で、自分の心を守ろうとしている、とも言えるかもしれない。
今よりも自由だった頃の事を考えたところで何も得られない、それどころか自らを傷付けることになる、と悟った無意識の防衛機制が働いているのではないだろうか。

「うーん、それは小学校から中学校、とか、中学校から高校、に上がった時のようなものなんじゃないかな?
きっと現実に起きているイベントに心が追い付けなくて、それぞれを別物だと考えてしまっているんだと思うよ。」

「なるほど…。」

その場しのぎに私が出した回答を聞いた彼女がこちらに返してきたのは、分かったのか分かってないのか判別の付かないような表情だった。
でも、とりあえずは納得したような空気を出してから、彼女は不完全な体育座りの体勢に移行して、足の間に頭を挟み込んだきり何も言わなくなってしまった。

 毎日毎日、こんなことの繰り返しで、変化なんてほとんどない生活。
友達へ連絡するのもやめたようだ。もう夏休みに入り、彼女くらいの年の子らはみな、海へ/山へ/街へ遊びに行っている時期だろう。
彼女もそれを分かっているようで、同級生のキラキラした夏休み生活からは意図的に目を背けた。
その行為を責めることは、誰にも出来ない。
思い描いていた夏休みと、今の自分の現状。それらの乖離を無意識で“認識しながら”も、同時にそれらを意識的に“認識しない”。
そんな二重思考を用いることで、ようやく彼女の心の平穏は保たれている。