生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

無題8話

 そろそろ、頃合いなのだろう。
彼女は自らの両足で、とは行かないまでも、自らの片手片足で移動する手段を身につけた。
それは「これで問題なく社会復帰できる」と言い切れる状態ではないが、この場所はそれ以上の状態まで回復させるリハビリを行うことを前提として作られていない。
 だからそろそろこの場所からは去り、どこか回復期リハビリを行える場所へ移らねばならない。1度に一つ所にい続けるには日数等の制限もあることだし。
 それに加えて、彼女は不満に思うかもしれないが、私もそれに同行する必要がある。

 彼女に拒否権はない。それでも一応礼儀として聞いておくことにする。
「ま、そういう訳で僕も同行するつもりだけどいいかな?」
「はぁ?何でしたっけ、記録を取り続けなきゃいけない、とか言ってたやつ?
はぁ。でも私にそれをどうこうする権利はないんでしょう?なら、私はこう答えるしかないじゃないですか。
“しょうがないですね、いいですよ”と。」
呆れ顔でどこか芝居がかった口調ではあったが、一応の了承は得た。
 そうは言っても、今すぐに移る/移ることが出来る訳ではない。回復期リハビリを行える場所のベッドは大抵埋まっている上、空いたとしてもすぐに埋まってしまう。
需要に供給が追い付いていないのだ。しばらく───と言うほど長期間にはならないだろうが、ともかく数日は待つことを覚悟しておいた方がいい。
なに、これまでもこの場所で数ヶ月過ごしてきたんだ。数日待つくらい、なんてことはないはずだ。
 都合の良いことに、ここには時間という概念が通常のそれよりは適用されてない。あれ以来窓のカーテンは完全に閉め切っているし、廊下からの喧騒は1日中昼夜を問わず聞こえてくるし、今の彼女は栄養補給を点滴に頼り切っているために、通常1日3回行う“栄養を口から摂取する行為”すらも行っていないし。
「時間を知覚する必要性/その方法」がここには存在していない。
 それまでの数日を10回寝て起きて過ごすことになるかもしれないし、1回寝て起きる間にその数日を消化しきることになるかもしれない。それは彼女の気分と体調によるから、こうだ、と断言することができない。
 まああまり気負いせず、この場所で過ごせる最後の数日を好きなように過ごせばいいと思う。リハビリができなくて暇だろうし、誰かに挨拶しに行くでもいいし、ここを見て回るでもいいし、あるいはただそのベッドの上でその時が来るのを待っているだけでも構わない。
それをどういう言葉で伝えればいいか、少し迷ってからこう伝えることにした。
「少なくとも君がここにいる間は、君は自由だ」
口に出してから、“自由”は言い過ぎだったか、その自由を誤解釈して何かをやらかしはしないだろうか、と少し後悔したものの、少し驚いたような表情を伴い返ってきたのは
「あ、えぇ、ありがとうございます…。」
「その“自由”という言葉が私に適用された場合に何を意味するのかはよく分からないけれど、それはきっと“猶予”なのでしょうね。
心配されなくても、私には今までと変わったことをする気はありません。そもそもする気力がありませんから。元々出不精な質ですし、あの廊下に出るのは怖いですし。私はこのベッドの上でぐうたらとさせていただきますよ。」
礼の言葉と訂正/再定義と、ここで身に付いたものなのか/生来のものなのか分からない遠慮で、つまりは先程の懸念が見当違いであったことを示す言葉だった。
 最後の方が投げやりな口調になっていたのは彼女なりのユーモア、なのだろうか。あまりそんなことを言う性格でもないだろうに、と少し引っかかりを感じたが、それは私に心を開き始めた兆しだと思いたい。
ご都合主義/楽天主義と謗られるだろうがこれは私が生まれてから今までに獲得した性格だ。生き方だ。今更変えようとして変えられるようなものでもない。
そしてこの記録は公にするような類のものではない。記録くらいは好きに書かせてもらうことにする。
 それよりも今は
「他の場所へ移った時、その環境に私自身が/そして何より彼女を、どう適応して/させていくか」ということに関してをその日までに考えておく必要があるだろう。
少なくともその日までは、もう特に私が記録する必要があるような事柄もない。
しばらくそちらにリソースを傾けることにしよう。