生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“ふと、思い出す”の中で生きている

 “意識して、思い出すこと”がある。
例えばスーパーに行った時に思い出す、
「家に足りてない食材」とか、
ついさっきの私が目薬を差そうとして探していて、そういえば昨日よく使うからとアウターに移していたんだった、と思い出した
「目薬の場所」とかがそれにあたる。
それらはどれも、生きていく上で必要に迫られて思い出す事柄たちだ。

 その一方で、“ふと、思い出すこと”もある。
それは例えば少し前に考え始めたまま放置していた
「他愛もない考え」とか、
何か外部からの刺激に誘発されて、そういえば、と思い出す
「思い出」とかがそれにあたる。
それらは大体、別に思い出さなくても生きてはいけることで、逆に言うと意識しても思い出せないということがあるようなことだ。

 どちらも大事だけど、やっぱりしっかり生きていくためには前者が大事で、少しでも楽しく生きていくためには後者が大事、みたいな区分はある。

 今の私はどちらも以前より曖昧になってしまっていて、
前者を意識してもなかなか思い出せないことや、
後者がふと思い浮かぶ機会をなかなか得られないことがよくある。
その中で、まずは前者をしっかりさせないと生きていけないから、前者が回復するように努めている。
後者は、なくてもなんとか生きてはいけるような類のものだから、とりあえずは後回しでよかろう、と思ってはいる。

 それでもやっぱり、後者は意識して思い出すようなものではないから、ぼーっとしてる時に何の脈絡もなくふーっと浮かんでくることはよくあるのだ。
 以前は常にそれらを思い出せるような脳の環境で、ぽこぽこ、ぽこぽこと浮かんできたけれど、
今ではもう、収納箱にしまい込まれているそれらがふとしたきっかけで箱の蓋を押し上げてようやく、といった過程を経て浮かんでくるようになった。
有り体に言うと以前よりはそれらが浮かんでくる頻度が減った。
 減ったからこそ厳選されたものである、という訳ではない。ただ、収納の蓋という関門を突破できたもの、でしかない。
だからこそ、なのかは分からないけど。今のミキサーでごちゃ混ぜにしたような思考がデフォルトの状態の中に、それらは何の脈絡もなく、どんな価値を有しているかにかかわらず、完全に独立した状態で現れる。現れてくれる。
 ごちゃごちゃでどこから手を着ければいいか困ってしまうような脳の書類ファイルの上に、ぽん、と現れたそれは、脳の書類ファイルからの逃げ場になってくれる。
いや、本当は書類ファイルをどうにかするのが何よりも先決なのだけれど、そればかりに集中してショートしそうになった回線を少し休ませるための逃げ場になる。その逃げ場に思考を向けている間、休ませた回線を使って書類ファイルを片付ける、みたいな、以前の自分に比べると燃費の悪い脳の使い方をするようになった。


 そして、さっき“ふと、思い出し”たことというものがある。それはやっぱり目前に迫った雑多なタスクより優先されることではないけど、逃げ場にはなる。
 それは、“楽しみ方”のこと。
ブログで書いたのかな、どこかで書いたような気がする、そんなことの、続きだ。
「異文化でも、つぎ込む熱量さえ似通っていれば/楽しむ方法さえ分かれば、楽しめる可能性があるだろう」みたいな話の、厳密には続き、とまでは言えなくてもそれに関係する話。

 結局人生は“楽しみ方”次第でどうとでも変わるのかもしれないなぁ、と、別のことを考えている時にふーっと浮かんできた。
その上で、私にはその「人生の“楽しみ方”」が全くもって分からない/分かっていないなぁ、と思った。
 それは、分かりやすく言えば「個々の性格」と済ませてしまえるようなことなのだろうけど。生憎と自分は「人生を上手く楽しめるような性格」をしていない。だから、方法論に頼るしかない。
この世の中には
「そういう性格でなくても、人生を自分なりに、自分の方法で楽しんでいる人」がいっぱいいるのだろう、と信じている。
いると信じた上で、そういう人はどうやって自分なりの「人生の“楽しみ方”」を見つけたのだろうか、と疑問に思っている。
まだ若造だから、見つけられないのか。
あるいは視野が狭くて、見つけられないのか。
それとも、他に見つけられない理由があるのか。
今の時点では考えても考えても分からないけど、この先、その都度その都度精神安定剤に頼るような/にしか頼れないような生活はしたくない、という気持ちがあって、そのためには自分に合った「人生の“楽しみ方”」を見つける必要がある、ような気はする。
 その「人生の“楽しみ方”」がなくても、やっぱり精神安定剤等に頼る、とかの裏技で生きていくことは出来るだろう。
でもそれはあくまでも裏技で、正規のクリア方法ではないような気がするし、いつかその裏技にすら頼れなくなる日が来てしまったらその時点で自分が終わってしまうから、きちんと自分なりの「人生の“楽しみ方”」を見つけたいなぁ、と思った。
 それはもしかしたら“とある趣味”かもしれないし、
コミュニケーションの取り方かもしれない。
ものの考え方かもしれないし、
生活のルーチンかもしれない。
誰と関わるか、かもしれない。
その“かもしれない”は、たくさんある。
 何が“楽しみ方”に当てはめられるのか、今の時点では全然見当もつかないし、今試行錯誤していることがまるで見当違いな可能性だってない訳じゃない。
こんな年になるまでそれを理解出来なかったのだから、今になって突然、そうやすやすと出会えるようなものではない気がする。
それでも、探す努力すらも止めたらきっと、この先の自分はこれ以上にどうしようもないところまで落ちてしまった時に死を待ち望むような生活しか出来なくなってしまうような気もする。
 だから、不器用な探し方だけど、いつ見つかるかも分からないけど、探すことをやめてはいけないのだ、と自分に言い聞かせている。

 もしかしたら、それも“ふと、思い付く”類のものなのかもしれない。