生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

無題9話

“そこは、神経質で潔癖性の人間が自分の趣味に合わせて作ったような部屋だった。
《その中に自分があること》を脳が知覚した時、「地獄とはその生死に関わらず何の前触れもなくふっと目の前に現れる場所なのだな」と思った。
 ある時期までの記憶や知識を共有した、私と同じ容姿の人間が毎分毎秒使い捨てられていくような感覚。
そして「痛覚と寒気と痺れを感じる」以外の機能を失った左半身。
そのたった二つの負債が、当時の私を地獄に叩き落とした。
 だけど、今だから言えることがある。
私はあの時はじめて地獄に堕ちたのではない、それまでもずっと地獄にいたのだ、と。
 あれは明らかに、普通の環境ではなかった。しかし自分はその中にいながら、私以上に大変な環境で生きている人もいる、これでもましな方なのだ、と本気で思い込んでいた。思い込まされていた。


 親機の80%が無機物で出来ているとはいえ、20%の有機物のための栄養補給は欠かせない。
今朝の気分に合わせ、蜂蜜とパンのフレーバーをタブレットで選択する。
選択されたフレーバーに合わせた調合がボックス内部で行われ、およそ30秒後に出てきた今朝の分のスムージーを飲み下す。
有機部のための栄養補給を終わらせてすぐに、補給ベースに腰を下ろす。通信機能の電源は入れたままに他の無機部の電源を切り、出勤する。徐々に暗くなっていく視界が再び明るくなった時、目の前にはいつもの職場の光景。
 職場でも、自宅と同型の補給ベースにこちらの臀部は同様に繋がれているため、同期が全て完了したことを確認してから接続を絶つ。
この一連の、昔の言葉で言うところの“通勤───今ではもうすっかり使われなくなった言葉だ───”すらも、流出後生まれの後輩くん曰く
「いや、面倒くさいっす」とのことらしい。
「昔の身体は有機部しかなかったから、自分の身体に『服』、あぁ……昔はある一定程度、『服』というテクスチャで有機部を覆い隠さないと罰を受ける仕組みがあって……で、それを着せて、自分の足で歩いて/道具に乗って小一時間くらいかけて自宅と職場の間を移動していたんだぞー」という長台詞を聞いたとしても同じ口を叩けるかどうか、見物だ。まぁそんなこと、口が裂けても言えないけど。

 私がここに同期したのを察知して、私の背後から
「そういえば、」と切り出したのは、町中でよく見かける“ダークブラウンのカツラ、オレンジの虹彩に、細めの輪郭”の組み合わせにチューンナップした顔を持つ、後輩くん───職場に来る作業すら面倒くさがる例の子だ───だった。
「さっき潜った時に家のポストを覗いたらまた救済の勧誘のチラシが入ってたんですよねぇ…勘弁してほしいっすよ、本当に」
「いい暮らしをしたいんなら救済に入っちゃうのもありだと思うけどなぁ…だからといって私は入らないけどさ」
中で休憩を終えて外に戻ってきたところだ、という後輩の愚痴を適当にあしらう。
「救済に入れば点数稼ぎも楽だろうしね」
「やめてくださいよ、冗談にしてもおぞましい」
そうは言いつつも、彼に対して『中はそういうのもあるから嫌いなんだよね』だなんて、口に出せばきっと“オカシイ物”を見るような目で見られる/そのように扱われるだろう。
結局は、今外にいようが中にいようが、一度“そうである”と規定されてしまった常識は覆せない。定期更新で当てられるパッチだって根底にある“そうである”を修正することはない。

「ま、とりあえず適当なところで仕事に戻ろうか」
今日中にR-68タンクの点検を終わらせねばならないのだ。くだらない話で時間を潰して上にどやされるのも面白くない。渋る彼を促し、共に貯蔵庫へ向かう。
「前々から思ってたんですけど、こんな点検作業、人もどきの連中にやらせればいいじゃないんですか?わざわざ僕らが行く必要もないっていうかぁ…」
「いつまで渋ってるの、貯蔵庫にアクセスできるのも特権のひとつだと思っていい加減に諦めなさいよ。何年この仕事やってるの」
「はぁい」
説教に対しても気の抜けた返事をよこす彼を見ながら
(昔だったら上司に対して部下がそんな態度取るなんて、考えられないことだよなぁ)と思いながら、自分自身がそう思っていることに対して自分がだいぶ年をとってしまったことを改めて認識する。
これも時代、なのだろう。
いつまで経っても/何度繰り返しても、そのギャップに慣れることはできない。”