ところで、この物語の主体は誰なのだろう。
あるいは───この物語書き手/語り手は誰なのだろう。
彼女か、私か。それとも他の誰かか。
君なのか?
“それは私には分からない。私かもしれないし、あなたかもしれない。”
市販のノートの形をして彼女の意思を伝えるそれが、今はまるで普通にそこにいるかのように/発声器官を持っているかのように返事をしてくる。これは幻聴なのか。幻覚だろうか。現実と言うことはありえまい。
“いいえ、私は確かにここにいるの。これはあなたの幻聴でも幻覚でもない、現実なのよ。”
ああきっと、この物語の書き手はどうしようもなく壊れている。こんなことがあってはならない。こんな物語が許されていい筈がない。
この私もノートの彼女も記録をしている。
それぞれにそれぞれの記録を書いている。
その双方がこの物語の書き手であり、
役者である。
代弁者である。
この物語の主人公はきっと彼女なのだろうが、その彼女もこの私も、印象深かった現実と、それ以外を補完する虚構の中で生きている。───がなくなってから、我々の記憶は曖昧で/ご都合主義で/嘘吐きになった。
だからやっぱり、この物語も真実起こったことを正確に語っている訳ではないのだ。
そして、もはやこれは「物語」だなんて言えるような代物でもない。
プロットなんてない。
それを裏付ける教養もない、
それをもっともらしく成立させる技巧もない。
思い付いたことを、思い付いた時にその都度書き殴るだけの便所の落書きのような物だ。
冒頭からここまで語られてきたことは、彼女の人生そのものではない。彼女の壊れた脳味噌に残っている記憶/記録/あるいは願望が織り込まれた、単なるフィクションだ。
お互いに、何故自分が記録しているのかすら忘れてしまった。今覚えているのは「ねばならない」だけ。
本当の始まりが何であったのか、忘れてしまった。
そしてこの物語がどういう形で帰結するのか、それすら我々には分かっていない。お互いに主体であると同時に、主体ではないからだ。
そんな、何もかもが曖昧なこの物語の中であっても、私は/“私は”記録しなければならない。一度開けられてしまった栓は、最終的には閉められなければならない。
私も彼女もこの物語という檻に囚われた囚人であるがゆえに、記録する以上の権限は持てない。それぞれに“役割”は与えられているけども。
さて、どこまで記録したのだったか。私はここに囚われている限り、自分に課せられた義務を果たさねばならない。