生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

不器用な人間だ

 私は生きるのが不器用な人間だ。
いわゆるコミュ障である、というのもそうだけど、13年間の剣道の経験(部活動含む)もその不器用さに拍車をかけている気がする。重石になっているような、気がする。

 私が13年間の剣道人生で何を身に付けたか。
剣道の技とかかけ声とか戦略とか、そういうのも身に付いたけど、やっぱり一番大きいのは礼儀だった。そして体育会系的上下関係だった。

そしてそれは、剣道家として必要なものである一方で、私が新たに人間関係を構築する上で足手まといになるものでもあった。

一概にそうとは言い切れないけど、まぁ簡単にまとめると、
“その礼儀が自分の中のスタンダードになった”。
それが普通だと思っていたし、それは人間関係を構築する上で最低限必要な礼儀だと思っていた。そういう礼儀を尽くし、尽くされるのが普通だと思っていた。そういう環境にいたから。
高校までは、そういった礼儀を最初からは尽くさなくとも「私が礼儀を尽くしたこと」を理解して、それに類似した礼儀を尽くし返してくれる人に囲まれていた。
きっと、私が真面目だったからだと思う。真面目に勉強して、真面目に生徒会活動をしていたから、それに応えてくれたのだと思う。推測だけど。
でも、大学からは違った。礼儀を重んじるかどうかより、要領の良し悪しで人間性が測られた。ただ礼儀を重んじるだけでは立場を確立できなかった。要領が良ければある一定の立場にいられた。

 だから、だと思う。私は礼儀を重んじている上で、ならともかく、礼儀を重んじずにただただ要領の良さだけでのし上がれている/気に入られている人を妬ましく思ってしまうのは。

 礼儀はパーソナルスペースの半径を広げる要素だ。同じように礼儀を重んじている人は例外だが。
逆に言うと、礼儀なんて全く気にせずに懐に入ってしまえる人間にとってのパーソナルスペースの半径なんて微々たるものなのだろう。
 そしてパーソナルスペースの半径が広い人間は内面を分かってもらいにくい、気もする。
私は私で考えていることがあったとしても、それを自分のパーソナルスペースに入ることの出来ていない/入ることを許していない人間には話さない。
きっと分かった振りをされるから。
勘違いをされるから。
間違った解釈をされるから。
その上で、私はパーソナルスペースに入れていない人間の前では何も考えていない道化でいる、それを彼(女)らは求めているから。
私に意見など求めていないから。

だが、妬ましく思ってしまうと同時に、やはり羨ましくも感じてしまうのだ。その生き方はその生き方でまた違った苦労はあるのだろうけど、私にとってはとても生きやすく見えるのだ。
でも、礼儀と自分のコミュ力のなさで雁字搦めにされた私には、その生き方はできない。だから、今の生き方に甘んじている。深入りしない人に対しては大学生的軽いノリで返すけど、深入りしてくれる人に対しては自分の思っていることを言う。心を開く、と言い換えることもできるかもしれない。

そして、パーソナルスペース内にいる人間に対しては饒舌になってしまう。コミュ障で、口頭によるLINE的な言葉の交わし合いが苦手だからこそ、ブログ的な長文演説のようなことをしてしまう。
要するに要領が悪いのだ。臨機応変に対応できないのだ。
逆に、相手の言ったことにもすぐさまレスポンスを返せない。しばらく聞いて、自分の中で噛み砕いて自分の中で明文化して、ようやく返す言葉を見つけ出す。ほら、やっぱり不器用だ。

 こんな不器用な人間を受け入れてくれる、
例えばこんな面白くもないブログを読んでくれている、こちらからは顔は見えないし誰かもわからないあなたのことが、私は好きだ。