生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

陰陽の話

 ホモビを観てきましたが、感想等は先日長々と書いたので省略します。

 えー、陽キャの話になったんですよ。どういう流れかは忘れましたが。それが興味深かったので備忘録的に書きます。

 彼曰く、「消費しやすい娯楽を好むのが陽キャ」とのことで、つまりどういうことかと言えば「カラオケやら海やらフェスやらの、行けばすぐフィードバックとして快楽が得られる類の娯楽を好むのが陽キャだ」ということで。短期的に、数打ちゃ当たる的に報酬を求めているようにも見える(偏見)。

 ここで我々陰キャの話をするとしよう。我々は、カラオケはともかくとして海やらフェスやらに自主的には行かないような人種だ。
じゃあどこから快楽を得ているのか?と言えば、
やっぱり読書だの映画鑑賞だのの、読むのに/観るのに時間がかかる上にその解釈には更なる時間がかかる類の娯楽からだ。

 では我々は、快楽を得るために陽キャよりも多大な努力を要するのか?
考えようによっては要する、と言えるかもしれないが、我々は「報酬」を得られなくともその過程において「快楽」を得ているのだ。解釈を考えること自体が「快楽」に繋がるとも言える。そしてその過程を経た上で得る「報酬(この場合は納得のいく/整合性のある解釈)」に出会えた時、まさにエウレカ、という状況になるのだ。
長期的ではあるものの、報酬を得るまでの過程すら快楽に繋がるし、報酬を得るまでの時間が長期に渡ることを自覚しているため、取り組むコンテンツ選びにすら慎重になる。新たな一歩を踏み出すのが億劫になる。

 じゃあ陰キャ的消費法の方が優れているというのか?といえば全くそんなことはなくて、むしろ人と関係を築く際に役に立たないどころかそれが弊害にすらなる。
陽キャ的消費法の良いところは、インスタントだからこそ人間関係を(とりあえず、でも)築きやすい、という点にある。

 私は典型的な陰キャ的消費法により動く人間なので、まず流行に安易に飛びつけない。乗り遅れることが多々ある。それは一度飛びついてしまったら、それについて考える義務感に駆られてしまうからだ。だから、私は流行してなくとも確実に自分自身のフィールドで戦えて快楽も得やすいコンテンツを選ぶ。そうしないと鬱も加速しちゃうしね。

 一度、陽キャ的消費法を試してみたことがあった。サークルに所属していた頃かな、所謂「楽しんでいる女子大生像(当時の自分にとっては陽キャ的消費法を行いやすいと思われた存在)」を追い求め、そのように動いた。結果はどうだ、散々だ、自分の手元には弾いていた楽器すら残っていない。
そこで悟った。私には陽キャ的消費法は合わないのだ、と。今現在、いくら自分の周囲の環境が陽キャ的消費法により回っていたとしても、陰キャ的な行動をしてしまうのはそういう理由がある。

 しまう、とは言いつつも、私自身は陰キャ的な生き方もそう悪いものではないと思っている。以前より脳の可動域は減少したものの、それでも私は考える、という行為に魅力を感じるのだ。
稚拙な考えや意見しか出力出来なくとも、自分自身が考えたことに対して同程度の熱量を持った賛成/反対意見が返ってくること、そしてまたそれに返すこと、それがたまらなく好きなのだ。