生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

自分の人生ですら主役になれない人間だっている

 あなたは少なくともあなたの人生の主役である、だからあなたが生きる意味は確かに存在する……的な言葉を聞く度に、それって詭弁じゃないですか?って思いません?あれ、私だけかしら…?

 どんな人間もそれ自身の人生の主役であることは間違いないみたいな論調で話を進められると違和感を感じるというか何というか。
何て言えばいいのかな。どんな救いようのない人間でも生きる意味はあるよ、だから生きようね!って言われているような感じ。
いやいやそんなことはないよね、と言ってしまいたくなる自分の陰キャ根性が悲しい()。

 周りの人間でいませんか?自分から見て「あ、こいつは確かに“主役”だな」みたいに感じるような人。私の知り合いにもいます。
そういう人を“主役っぽく”たらしめているのは、自分や周囲の人間が生まれてから今までに身に着けてきた価値観だから今更覆しようもなく。
「考え方を変えればいいじゃないか」「自分が主役になれるような価値観の下で生きればいいじゃないか」という意見もあるかと思います。
けれど、そういう(私のような)日陰者にはそういう価値観を───たとえ自分の心の中だけでも───覆すだけの体力/気力すらないのです。
そういう日陰者はなるべくして日陰者になり、自分はどう足掻いても主役ではないことを悟るのです。

 “主役”は何らかの分野において突出した能力を持っています。それは最近流行りの(?もうブームは過ぎてるのかな?)ラノベ的主人公、どこにでもいる……から人物紹介が始まるキャラクターであっても例外ではありません。勉強の分野では落ちこぼれで……みたいなキャラであっても他の分野で優れていることは多々あります。
その優れている分野は運動能力であったり、あるいは人間性であったり行動力であったりと様々で、まぁ要するに主役を主役たらしめるだけの能力を保持している訳です。



 少し話は変わりますが、物語が物語であるためには何らかのカタルシスを提供する必要があります。
私が師と仰ぐ先生に教えていただいた、世の中によくある/世間によく受け入れられている物語の展開をグラフにして説明した動画を視聴した時も、やはり物語にはカタルシスが求められているんだなぁと小学生並の感想を抱きました。
 まぁ当然といえば当然で、物語というのは一種の疑似体験であるからして、現実ではうだつが上がらない人間であっても、その物語の主人公に自己を投影することで快感を得ることが出来る構造になっていることがしばしばです。あるいは自分の価値観を物語の中で正しいと証明してもらうことによって快感を得るような類の物もあります。要するに“フィクションの世界でくらいは夢を見させてくれ”的な。

 話が戻るような戻らないような。ごっちゃごちゃになってますけど。
そういう───カタルシスを得ることを目的に読むような───物語の主人公って、どう自己を投影させようとしても完全には投影させきれませんよね。
どこかの段階で(ああ、こいつはこうこうこういう理由/能力で“主役”という地位を得ているのだ。自分と同じような立場であるように見えても、結局のところ、自分とは違う世界の人間なんだな)って思いません?私はよく思います。

 自分はどうあっても(自分を含めた)誰かにとっての1番(主役)にはなれない。いつまで経っても2位以下の立場(脇役)でしかいられない。
現実から逃避するために読む物語すらも、自分に対してそのような残酷な現実を突きつけてくるのだから余計に始末が悪い。

 私は私の人生の主役であることすら出来ないから、デウス・エクス・マキナがどうにかしてくれないかな、なんて実現可能性のないような願望を抱きながら脇役の立場を受け入れて生きていくしかないのかなぁと思いました。まる。





 まぁとにかく、誰の人生の主役にもなれない人間って寂しいよねってお話でした。