生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

やっぱり耳を傾けるべきは元憂鬱症患者の言葉だった。言葉の重みが違う。

 “あなたが生き延びることが私にとって、(中略)もっとも重要であることを知ってください。”と、言われました。



 その方にとっての自分なんて矮小な存在でしかないから、どこまで本心なのかわからないけど、その言葉で、私が求めていた物の正体がやっと分かりました。

 私は誰にも必要とされていない、と思っていました。むしろお前の存在は悪だ、と誰も彼もから糾弾されているように感じていました。
誰の一番にもなれない=誰も私を必要としていない、と。
 その感覚は障害を抱えた後により強まりました。
健常体でも必要とされないのに、さらに障害なんて抱えてしまったならば、よりお荷物として認識されるだけではないか、と。
実際、お前なんて産まなければよかった、とも言われました。
 好きになった人に、嫌われて、罵倒されて、蔑まれて、優しくされた後にポイ捨てされました。
そんなことの繰り返しで、やっぱり私は不必要な人間なのだという認識を深めていきました。
親にすら邪魔だと言われ、家にすら居場所がない状態で。

 そこで冒頭の言葉を言われて、ああ私は、誰かに「生きていてもいい」あるいは「生きていて欲しい」と言われたかったのだとようやくこの年になって気が付きました。

 誰かに必要とされている感覚を得るために、色々なことをしました。それこそ世間一般でメンヘラと言われる人がやるようなことを。
 丸裸の胸を揉まれて、大事なところを触られて、焦らされて焦らされて、結局何もされない、という経験をしました。誰かに必要とされたくて、それを受け入れようとしたのに、そして受け入れたのに、本当に求めていたことをしてくれなかった経験。
 お前はいらない。邪魔なだけ。何で生きてるの。あるいはどうしてまだ死なないの。と言われているような、感覚を私に与えました。

 結局私は誰にも必要とされていないのだ、と私に思わせるには十分な経験でした。

 もう耐えきれなくなって、師匠に連絡しました。文学に住む人であれば、私が今すべきことを教えてくれるのではないか、と思って。精神科医とは別のアプローチを、私に教えてくれると思って。

 そうして分かりました。ただ、単純なことでした。
私はただ、誰かに生きていていいと言われたかっただけのことで。
でも多分、私にそれを言ってくれる人は師匠しかいない。このままだと多分、師匠に依存してしまう。だから他の誰かに言われたい。

 私が江口を追っかけている理由は前にも言ったと思いますが、自分なんて認識すらしていない存在を追っかけていれば、最初から自分を必要としていないことが分かり切っている存在を追っかけていれば、少なくとも傷つくことはないからなのだと改めて認識しました。

 私はどう足掻いても必要とされない人間なのだから、はじめから私を見ることすらない人間を好きになろう、と。

 私がサークルにいた時に発症しなかったのはそういう理由もあって。(ある特定の役職について)「お前しかいない」「お前じゃなきゃ出来ない」と言われ続けてようやく心が保たれていました。
でもいざ障害を抱えたら、他の人がその役職に就いていて。お前じゃなくても仕事は出来たわ、と言われたような感覚で。全てが一気に崩れ去って。

 なぁんだ、必要とされたかっただけなのか、そうかそうか。合点がいきました。
 家では家族に必要とされなくて、学校でも誰からも必要とされなくて、そんな中で生きてきて、努力さえ続けていれば誰かに必要とされると信じてやってきた。
でも実際に必要とされるのは要領のいい子だと、薄々感じていたことを大学ではっきりと明示されて。
それまでの努力は全くの無駄だったのだと理解させられて。
じゃあ、と。要領のいい、誰かに必要とされている人の真似をしました。

 ああ、なるほどなるほど、だからお前は/私はああいう行動をとったのか。なるほど。分かってきたぞ。

 うん。私は自分が好きな存在からも同様に自分を好かれたいのだな。フィクションの読みすぎだ。そんなことは有り得ない。だって現実はそれほど甘くないのだから。
文学作品は逃避先であり、避難先だ。このつらい現実から目を背けるための場所だ。
 だけどそれはどう読んでも非現実であり、現実ではない。現実のように振る舞っていても非現実でしかない。
 脇腹が人を騙し、正当な後継者を陥れると最終的に破滅する、ここはそんなに綺麗な世界ではないのだ。
この世界は残酷で、不器用な生真面目人間が割を食い、器用で要領のいい人間が全てをかっさらっていく。どれだけ努力しようと、それは覆らない。努力は実らない。

 ここはノンフィクションの世界だ。ここから逃げる方法なんてない。必要とされたくば、それに足る人間であらねばならない。

 私は今のところ、師匠に必要としていただけているらしい。でもそれ以外の人は、私自身も含めて私を必要としていない。
その現実を受け入れるべきなのだ。必要とされない人間でも、生まれ落ちてしまったからには死ぬまで生きていかなければならない、という、救いようのない現実を。

 憂鬱症は内面を観察するいい機会です、と師匠は仰った。
これ幸い、と、私は内面しか見ていない。外を見る余裕が少しもない。
師匠がどうして使い古した鞄を携行しているのか、不思議で不思議で仕方がなかった。けれど分かった。
内面を観察するのは大変な仕事で、外面なんかに気を配っていられないのですね。分かりました。
私も今、ボロボロの、同じ年頃の人間から見れば貧相でみっともない格好をしています。だってそこまで手が回らないから。そんなことよりも、自分の内面を観察することが今の自分にとって大切だから。

 江口が作曲していた(自称)純愛ソング、どうして良い曲だと感じてしまうのか分かった。不器用で、要領も悪い自分のような敗残兵の言葉が書かれていたからだ。嘘偽りのない、「負け組の言葉」を紡いでいたからだ。

 私が江口を好きな理由も分かった。あんなに外見が整っていて、本来なら私とは違う視点を持って生きるべき、カーストで言えばもっと上に位置できるような人間なのにも関わらず、私みたいに拗らせた、惨めな人間の視点で物を見ているからだ。
 有り体に言えば、あなたの気持ちは私にしか理解できないと感じさせる力があるからだ。私の言葉を代弁して世に発信してくれているからだ。

 そして、その上で誰かに必要とされている江口に憧れる。私もあんな風に必要とされたいと焦がれる。

 師匠のおかげでちょっと元気になりました。ぽかりおいしいです。