生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“記憶”の海に溺れて

 この身体を抱えて生きていく上で、“記憶”について考えることは避けては通れない。自分は門外漢だから、厳密に、科学的に考察することが出来ないけれどらそれでも、だ。

 まず、記憶について考える上で基本となるのは、余所でも言われているように、「机」と「本棚(書庫)」の概念だ。
「机」はワーキングメモリのために、「本棚(書庫)」は長期記憶のためにある。「机」で作業して、必要とあらば記憶を「本棚(書庫)」に保管する、という考え方。本棚に仕舞うのだから、その保管される記憶とは本のような形式なのだろう、と少し前まで考えていた。

 だけど違う。違う、というか、どうも違うようだぞ、と思うようになってきた。
「本棚(書庫)」に仕舞うための記憶は、まずワーキングメモリから長期記憶にするための加工を経ることになる。その加工は「机」の上で行われる。
まず、その「机」の上で、本のような形をした箱の、本で言うところの“背表紙”にあたる部分にある蓋を開く。箱の中は空洞になっている。
開いたところへ、長期記憶に移行させる記憶を注ぎ込む。記憶は固体ではなく流動性をもった液体だから、このような形式でしか保管が出来ない。
注ぎ込むと同時に、その記憶に関する五感の記憶もフレーバーとして混ぜ込む。そうすることで、記憶の引き出しやすさを高めるのだ。どうやら私の場合、ここで“におい”に関する記憶を混ぜることが多いらしい。
記憶と、フレーバーを注ぎ込んだら蓋を閉めて「本棚(書庫)」に仕舞い込む。これでようやく、長期記憶として成立する。

 健常な状態であれば、基本的に「机」の前に座って作業をし、必要に応じて「本棚(書庫)」から該当部分の記憶を引き出し、参照する、といった作業を繰り返して日々の生活を送る。

 だが、異常な状態───今の私のそれのような───の中だと、まず「机」の前に座ることすら困難なのだ。何故ならば、「本棚(書庫)」に保管されているほとんど全て箱の蓋が脆くなっていて、常に開いた状態になってしまっている。つまりどういうことが起こるかと言えば、それぞれの箱の中身が溢れ出し、「机」が置いてある部屋を、その中身である所の液体(記憶)で満たしてしまうのだ。
当然、泳ぎ続けなければ溺れてしまう。けれど、「机」は依然として床にへばりついている。だから日々の生活を送るためには、まずその「机」までたどり着く必要がある。雑多な記憶で構成された海を潜って、海底にある「机」の前に座る必要がある。
たどり着くまでの間に、雑多な記憶の海水を飲み込んでしまったり、飲み込まなくとも海水に漬け込まれるだけで影響を受けてしまったりする。目的には必要のない、余計な記憶も「机」に持ち込んでしまうのだ。
そうしてようやくたどり着いた「机」でまずしなければならないのは、少なくとも「机」の表面を覆う海水を取り除く作業だ。これまたかなりの労働で、上から流れ込んでくる海水をどうにかせき止めながら、「机」を乾いた、普通の状態で維持させなければならない。
ここまでして「机」の上でやる作業とは何か、といえば何のことはない、ただ友人と何を話すかを考えるだけのことだったりする。
でもそんな単純な作業さえも、「机」まで潜ってくる間に飲み込んだり浸食してきたりした、雑多で余計な記憶の中で行う羽目になる。そうした余計な記憶と、油断するとなだれ込んでくる海水をかき分けながら、友人と雑談を楽しむための思考を巡らす必要がある。

 これらは大変な労働だが、それをやらないとどうなるか?
色んな記憶がごちゃ混ぜになった海水の中で溺れ、自分が過去・現在・未来のどこに立っているのかすらも見失う。雑多な記憶の洪水の中で、次にやるべきことが何なのかすらも分からなくなる。

 だから、私は長期記憶が箱に収められた液体状の物質なのだと思っている。
そして日々泳ぎ続けて、泳ぎ疲れたり足をつったりした時には海で溺れて自分を見失う。
私は、日々そんな記憶の海の中で生きている。