生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

今気が付いただけで、今までも“そうだった”ことがあるのかもしれない

 最近、「無敵の人」という言葉が話題になった。失って困るような物を何も持っていないから、捨て身で何でも出来る人、だから無敵の人と呼ぶ、という理解をしているが合っているだろうか。

 合っているだろうという前提で話を進める。進めるぞ。
実際に何かを持っているか否かに関わらず、その人自身が「何も持っていない」と認識した瞬間に「無敵の人」が生まれる。逆に言えば、他人からすると何も持っていないように見えようとも、本人が「自分には何かがある」と思えている限り、その人は無敵の人にはならない。

 私は、ある人にとっては終わりが見えないくらい広大な大地/また別のある人にとっては綱渡りの綱の上に、生まれてから死ぬまでの道筋をその人なりに刻んでいくのが人間だと思っている。
その土台になっているものは、その広さや強固さを問わず、端から落ちた人は皆その瞬間に「全てを失った」と認識してしまうような類のもので。
土台から落ちると無敵の人になる、みたいな。

 そしてそこまで考えて、自分の土台ってどんなものだろうと考えた。先述の、綱渡りの…云々は自分のことを指している。私は自分が、綱の上に立っているのだろうと思う。
今足元を見て気が付いただけで、思い返してみると自分が何度かこの綱から足を踏み外したことがあるような気がした。
「あの時も、あの時も、綱から足を踏み外したけど間一髪、伸ばした手がたまたま綱を掴むことが出来てまた綱の上に立てただけで、手を伸ばせず綱を掴めなかったら、私もまた無敵の人になっていただろう」と思うような瞬間にいくつか心当たりがある。

「自分には失うものが何もない」と思ってしまったら駄目なのだ。足を踏み外してしまうのだ。踏み外して、土台から底まで落ちきるまでの間に「手を伸ばそう」と思えない限り、無敵の人になってしまうのだ。

 そもそも、今の私には何があるのだろう、だなんてことを考え始めなければいいのだろうけれど、私のような人間は暇さえあればそういうことを考え始めて、しかも自分ではなかなか止められないから質が悪い。
そういう人間は、土台から落っこちないように、自分で自分に注意を払い続けなければならない。