生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

タイトルが思い付かない時もある

 きっと、それは異性でも同性でもよくて、恋愛でも友愛でも構わなくて、ただ単に「確かに自分がここにいていいということ」を証明してくれる何かを探していた/いるのだと思う。



 一般的に親から与えられる(と言われているらしい)無償で何の根拠もない愛は、そういった「自分はここにいてもいいんだ」と思える自信に繋がっていく。そしてそれはその人自身の基盤になって、自己肯定感を生み出す。

 私は愛に飢えていた。飢えている。独占でもしなければ愛なんて得られないものだとすら思っている。
親は私を見なかった。一方私は彼らを見ていて、彼らに見られようとした。それでも親は私を見なかった。そのすれ違いが、今に至ってこの拗らせっぷりとして現れたのだろう。

 愛にも色々と種類がある。長年かけて熟成されていくものから、短期間のみのものまで、様々に。
前述の「親からの愛」を受け取れている人は、この世に生まれ落ちてから親と死別するまでずっと、年齢を積み重ねていくごとに愛が熟成されていく。
 けれどそれを受け取れていない人は、いくら歳を取っていようともその分欠けている。歳を積み重ねていくごとに、残りの寿命と今の年齢とのギャップを見て、そんな愛なぞもう得られなくて、得られたとしても年相応に熟成された愛にはならないことを悟る。
 だから、短期間のみのものに望みをかける。長い時間を要するものが駄目ならば、そちらに望みをかけるしかなくなる。せめて、せめて、一夜だけでもいいから愛を得てみたいと、思う。

 「親からの愛を受け取れていないこと」は、それだけでハンディキャップになると思っている。それを持っている/受け取れている人には分からないだろうけど、持たざる者にとってそれは大きなハンディキャップだと感じるのだ。

 そこには、理由なく・理不尽に・その時々の気分で行使される暴力しか、なかった。愛なんてなかった。夫婦間に愛がなければ、その子に愛を注げないのは当然のことだろうと思う。だって自分の遺伝子のみならず相手の遺伝子を受け継いだ子だ、憎たらしいに決まっている。

 「逃げれば良かったのに」
「施設に駆け込めば良かったのに」
という意見を、ちょうど中学から高校に上がるくらいの頃、同世代の子らに言われた。確かにもっともな意見だと思う。
けれど、当時の、そして今の私には、どんな親であろうとその扶養を受ける以外に「どうしようもない自分でも比較的まともな人生を歩める」ような選択肢が思い付かなかった/思い付かない。
 きっと努力をすれば、親から離れたとしても奨学金をもらえて学校に通えただろう。現に大学でも貰え(てい)たのだから。
だけど私の視野はやっぱり狭くて、一般に普通とされる人の人生を歩むにはどうすべきかということしか考えられなかった。元々駄目な自分なのに、これ以上落ちこぼれるのは嫌だという、つまらないプライドで。

 そこに家族としての愛なんてないのに、私は自分自身の将来のためだけに親の扶養を受けている。愛なんて、フィクションからしか感じ取れない。誰も自分を愛さないというだけのことが、憂鬱症の時にここまで自分を追い詰めるとは思いもしなかった。

 そういう人のことを恋愛依存だ、と他人は言う。それは愛ではなく恋だ、という指摘もあるだろう。だけど私は、今まで受け取れなかった分、物語にあるような、“綺麗な、自分に注がれる愛”に憧れを抱いているのだと思う。


 その愛は、友人関係か恋人関係かを問わない。けれど何故か、自分の中に「きっと恋人関係はとても清くて美しいものなのだろう」という憧れがある。それで余計に恋に焦がれる。愛に焦がれる。
恋に恋する、ではなくて、恋に焦がれる。
どうしようもなく、焦がれている。