生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

「努力は必ず報われる」と言うのなら、報われていない人は努力をしていないということになるのか?

 あるいは「努力が足りない」と言われるのだろうか。

 Twitterのあるアカウントに、「筋肉こそ全て」という論調で、厳しい言葉で啓発を行っていたものがあった。
一時期
「そういうお前はどうなんだ」
「成功しているのか」
的な感じで叩かれて息を潜めていた同アカウントは、「筋肉こそ全て」というコンセプトは変えないままに、優しい言葉/甘ったるい言葉で啓発するアカウントに生まれ変わっていた。まぁそれはいい。読み手の耳に痛くない言葉の方が受け入れられて、やがてはバズって行くのだろうし。
だけど、そのアカウントが言っていた「努力さえ続けていれば必ず報われる」という言葉だけはいただけなかった。
それは「報われていない人は努力をしていない」と言っているようなものだったから。

 個人的に、努力とは燃料であって、個々の身体にその燃料を注入して身体を動かすことでここでいうところの“報われる”のような成果を得ることが出来るような代物だと思っている。ガソリン・車・走行の関係のような。
だから同じだけの努力をしても同じだけの成果が得られるとは限らない。だって人それぞれ、燃費が違うから。
どんなに努力という燃料を注ぎ込もうとも、ほとんど報われないような人も、この世の中には存在する。

 またどうして私がそんな発言に反応したかと言えば、Twitterで発言力のあるアカウントがそういう“一見”正しいことを呟いて拡散されると、それを真に受けた層がその判断基準に基づいて、人を善と悪に分け、自分を善と思いこんだまま、“その基準において悪と規定された”人を叩き出すからだ。
もはや炎上なんてそれ自体が商法になるほど日常茶飯事になりつつある昨今、無意味な対立を招くような発言を(最低でも影響力のあるアカウントは)控えるべきなのではないかと思う。私のように弱くて、悪と見做され叩かれる立場になりがちな人間(自分の責任なのだけれど)にとって、人を酔わせる正義を安易に生み出してほしくないと思うのだ。



 話は変わる。人と人は「わかる」で繋がって、その親交を深めていくものなのだろう。この場合の「わかる」は「共感」というよりは「同感」に近い。だからこそ知識量の多さが人との繋がりやすさに繋がっているのだとも思う。
 このブログで(自分の記憶が正しければ)何度か取り上げている『手を伸ばせ~』は、その人間普遍の感情に働きかけて「わかる」を引き出すという点において卓越していると私は考えている。

 そして人は「わかる」で繋がった後、「これは我々にしか理解できない」「我々はこういう人間だ(他の人とは違って)」というある種の選民意識で互いの絆を強固にしつつ、他を排斥していく。自分が排斥され、孤独になるという危険性を排除するにはいい方法だと思う。そういった、先手を打ってしまうという考え方は。

 安定剤を飲み忘れ、部屋の外から親の(私にはその内容を理解できない/理解しようと思えない)独り言が延々と聞こえてくる中、自分の半身は変わらず寒気を感じる夜に。
ふと私は「排斥されている」ということを強く認識し、誰かと繋がりたい/わかり合いたいと思いながらもそうすることが出来ない自分の不甲斐なさに自己嫌悪する。



 昔受けた暴力について思い返していたら、自分が一際恐ろしいと感じる物があることを思い出した。
それは、竹で出来た30cmの物差し。
その物差しは古いもので、母親が旧姓だった頃に使っていた名残として、裏面に母親の名前(旧姓)が書かれているような物だ。
私はそれを恐ろしく感じる。もうどこにあるのか、あるいはもう捨てたのかのかも分からないけど、それは本当に恐ろしい物だった。
 母親が出て行った頃、父親は荒れていた。残された私に対し、理不尽に暴力を振るってきた。
その暴力の中で出てきたのが竹の物差しで、彼は家の中を逃げ惑う私を追いかけて、私のところに追いついてはそれを使って全身を叩いてきた。
部活の時に竹刀で打たれるのは(防具もあったから)慣れっこだったけど、普通の服しか身に着けていない生身の状態の身体にそれを打ち込まれるのは本当に痛かった。
痛くて痛くて、逃げて逃げて、立てこもった部屋の内側から、鍵がかけられない引き戸を父親に開けられないように必死に全体重をかける程だった。その時は結局引き戸を開けられて、また滅多打ちにされたけれど。
だから私は、竹の物差しが恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。防具を身に着けていない状態で叩かれるのも、ちょっぴり怖い。