生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

知らない振りが嫌いだった

 多分私は人間───というか動物全般───でいることに不向きなのだろう、とふと思った。

 私は昔から、かまととぶって綺麗な振りをする人間が大嫌いだった。知っているのに知らない振りをして、ウブな人間を演じている奴が、嫌いだった。

 それを決定付けたのは中学を卒業してすぐの頃で、中学時代の(下ネタなんかしの字を聞くだけでも赤面していたような)友人から恋人が出来たという話をあー、めでたいねぇと聞いていた時にその子の口から
「(恋人)の他にも何人かと関係を持ってて~。みんなコロッと騙されるから面白いんだよね」だなんて予想もしていなかった言葉を聞いた時だった。
それだけで、自分と同じ性別で、その子と同様に“何も知らない振りをする”、“身綺麗な振りをする”人間が苦手になって、嫌いになって、自分はそういう生き方はしないようにしようと心に誓った。
“だって、知っているのに知らない振りをして、それで評価されるなんてフェアじゃないでしょ?”という考え方から、知っていることは知っているときちんと表明して生きていこうと思った。
私はそういう“フェアじゃない人間たち”とは同類でいたくなかったから、それはずっと心掛けていた。

 そうしている内に時が過ぎ、私も少し大人になった。
「知っていることであっても知らないように振る舞うこと」はこの性別の中で上手く生きていくためのコツなのだ、と、周回遅れで学んだ。だけどそうして生きることに対しては、まだ抵抗があった。
そういう経緯もあり、高校ではいわゆる同性らしい同性、よりも異性と仲良くなることが多かった。同性の社会は、とても窮屈だった。騙し合い/化かし合い/探り合いは日常茶飯事で、そんな中で生きるのが怖かったのだ。

 そしてもう少し時は過ぎ、私も前よりはもう少し大人になった。だけど同性らしい同性に対する抵抗感はまだ拭い去れていなかった。
 この性別で上手く生きていくためには、いくらかの策略を伴わなければならないことは重々承知の上で、自らそれを避けた。
同性らしい同性よりも、同性らしくない同性との付き合い/あるいはいっそ異性との付き合い、に活路を見出した。
 正直に言うと、とても楽だった。知っていることは正直に、知っている、と互いに言い合える関係がとても楽だった。
そしてかまととぶっている訳ではなく、本当に育ちが良くてそういうことを知らない、という理想的な(?)同性にも出会った。
私はその子のことは好きだ。だってその純真無垢さが張りぼてなんかではなく、身体の芯から作り上げられているものであるだろうことを、その子と関わっていく中で理解したからだ。
その子は立ち振る舞いから言葉遣いから、どこからどこまでも隙のない子だ。その振る舞いは、嘘偽りではとてもじゃないけど出来るようなものではないから、その子のことは信用している。

 同性らしい同性と付き合う道から逃げたからなのか/また別の理由からなのか、どうしてなのかはこれを書いている今でも分からないけれど、私は
“かまととぶる同性のことが、本気で、心の底から無理”
になった。
その人自身と話さなくても、ただかまととぶっているところを見るだけで、吐き気がする程の嫌悪感を抱いた。
「えっ?」と言いながら両手の拳を口元に持って行って、困り顔をしながら上目遣いをする人間がこの歳になってもまだ自分の視界に存在することに絶望した。
きっと私はこの性別に向いていない。
だからといってもうひとつの性別、あるいはもっと他の性別に向いているのかと問われれば、分からない、としか答えられない。

 だから私は、自分はもはや人間───というか動物全般───に向いていないのではなかろうか、と思うのだ。