生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

越えてはいけないラインを越えてしまって、大事なことすら忘れた時の自分へ。比較的元気な状態の自分より

 今の病気に囚われていると、何もかもが嫌になって、生きていることすら嫌になることがある。ことがある、というか、多々ある。
でも、そんな状態であっても、自分の中ではそれはまだマシな方だと思っている。


 そう、それだけならまだマシなのだ。問題はその先の、それを越えたら駄目だろう、という“ある一定のライン”の方にある。そのラインを踏むか越えるかした自分を認識してしまった時、これ以上ないくらいに自分を嫌悪するのだ。

 それは、「他人の幸福を願えなくなる」「他人の不幸を願い始める」線。
そこまで至っていることを自覚すると、流石に自分それは駄目だぞ、と思う。
自覚もないままにそのラインを踏み越えることもある。そういう時は、自分の周りはもちろんのこと、自分のことすら見えなくなっている。幸せになるためならば自分を傷つけることすら厭わなくなり、傷ついていることにすら気が付けない、狂戦士のようになっている。

 「他人の幸福を願わず」「他人の不幸を願う」ことで自分が幸せになれるのならまだ良いが、当然の事ながらそれで幸せになんかなれない。
例のラインを踏み越えてしまうのは大体、『世の中の幸福の総量は予め決められていて、自分が不幸な分だけ他人が幸福を得ている』という妄想に囚われている時だ。
なんてくだらない妄想なんだ、と思うだろう?私もそう思う。平時はそう思っている。だけど、本当に神経が参っている時には、その妄想があたかも真実であるかのように感じられてしまうのだ。

 そのラインを踏み越えた自覚をすると、自己嫌悪の他に副作用として本当に自分が惨めに思える、というものがあり、憂鬱症が悪化する。
だからといってそのラインを越えたという事実から目を背けても、その方法ではどうやっても幸せになれないから、やっぱり憂鬱症は悪化する。
他人の不幸を願ったところで自分が幸福になれるはずもないのだから、当然と言えば当然の話なのだが。

 まず、本来「他人を不幸を願うという行為そのもの」が本当に嫌いで、自分がそれをすることで幸せになれるか否かに関わらず、やりたくない。
 そして、そもそも「何をしたって自分は幸福になれるはずがない」とも考えている。
うん、だから、まぁ、他人の不幸を願いたくなくて、自分も自分で幸福になれる気がしないのならば、“そういう妄想”はしない方が心の健康にいい。
いい、と、今の比較的穏やかな状態なら理解できるのだけど、憂鬱症のどん底にいる時にはそれを忘れてしまう。
だから、また憂鬱症のどん底に落っこちて、そのことを忘れてしまっているだろう、未来のどうしようもない自分のために、備忘録としてここに書き留めておくことにする。

 思い出せ。

 「他人の不幸を願ったところで、お前は幸せになれない」
「今のお前に出来ることは、せいぜいそのどん底から這い上がって、お前自身の力で幸せになることだ」と。