生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“好き”を、武装して自分で守らなければならない時代

 何かを好きになる、ということはそれだけで大変な事業のように思う。

 それが有機物だろうが無機物だろうが関係なく、それを好きだと思えること、がまず素晴らしいことで、さらに言うと
「それを好きだ」と言えること、はもっともっと素晴らしいことだ。特にこの、“嫌い”が飛び交い、消費される現代のこの国においては。

 以前、どこで見たのかは忘れたが、
「オタクの在り方が昔とは変わっている」という言葉を見かけた。どういうことかというと、曰く、“昔は熱意だけでそのオタクでいられたのに、今や知識も要求されるようになった”ということらしい。
 昔の人がどうだったのかは分からないけれど、今の人に関しては分かる。それを読んだ時、確かにそうだと私は思った。

 今、純粋に何かを「好き」と思い、公言するだけでも
『何で/どうして?』が要求される。
実際に特定の誰かに要求されずとも、世の中そのものに要求されるのだ。その世の中に生きる、他でもない自分自身から要求されるのだ。

 だから、何かを「好きだ」と公言する/世の中たる自分を納得させるには一定の論理が必要で、
「これこれこういう理由で」好きなのだと説明しなければ好きでいることすら許されない。
(話に聞いたところの)昔がそうであったように、もはや“熱意”だけで「好きだ」と公言すると、他人から/世の中から/自分自身から「何で/どうして?」を突きつけられる時代になってしまった。
うまく説明できないと/一定の論理がないと
「じゃああなたはそれのことを本当には好きじゃないんだね」あるいは
「他のこれの方が“これこれこういう理由で好きだ”と言える点において《勝っている》」とまで言われる。
今や
「好きだ」と言うのは開戦の合図になり、自分がどれだけそれを好きなのか、は“熱意”ではなく“論理”で語らねばならなくなった。そしてその“論理”が語れないと、
《論理がないということは、本当にそれが好きな訳ではない》だなんて烙印を捺されてしまう。説明できなくとも確かに自分の中にある“好きだと思うその気持ち”を真っ向から否定されてしまう。
現代のこの国においては、何かを好きになるためには、“論理”で武装して自衛しなければならなくなった。

 窮屈だ、と思う。
「なんとなく、理由は分からないけれど、好き」が許されない世の中は、とても窮屈だと思う。
 “嫌い”は湧き上がりやすい。
何故なら人は、物理的か否かを問わず、自分に及ぼされる何らかの害に対してとても敏感だからだ。だからSNSでもちょっとしたことで“嫌い”が噴出して、炎上したりする。
 一方、“好き”は湧き上がりにくい。
何故なら何かを好きになると言うことは、能動的な作業であるからだ。その上、公言しにくい。前述の通り、不特定の誰かを納得させられるだけの“論理”を要求されるから。

 だから、悲しくなるほどに窮屈な現代の、この世の中において、「何かを好きだと思えること」と、「何かを好きだと言えること」は本当に大変で、素晴らしい事業なのだ。

 私は、“何か好きな物がある人は、ただそれだけのことで自分を誇って良い”ように思う。