生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

それにしてもあつい。タイトルはまだ思い付かない

 授業が終わった後の休み時間、隣の席の奴に突っつかれた。
「何ボーッとしてるんだよ。もし先生の機嫌が悪かったら課題も問題1問なんかじゃ済まなかったぞ」
「へへ、ちょっと考え事してた」
「全く……」

 その時、教室の後ろの方からガタガタと、バタバタと、忙しない音が聞こえてきた。そちらを見ると思った通り、三人の事務員が一組の机と椅子を教室から運び出しているところだった。その机と椅子の本来の使用者のことなんか考えもせずに、彼らはそれを運んでいった。そう珍しいことでもない。聞くところによると、年度に1,2回は行われているらしい。
 わたしはその机と椅子を使っていた人間のことを知らない。今いるこの教室から運び出されていったのだから、わたしと同じクラスに属する人間だったことには違いないのだけど、わたしはその人のことを知らない。
 隣の奴にも聞いてみた。やっぱり
「知らない」ということらしい。あの机と椅子が運び出されたということは、つまりはそういうことだ。誰もその人のことを
“知らない”から、あるいは
“知ろうとしなかった”から、机と椅子は運ばれた。あるべき所へ運ばれた。

 大昔の開発によって星の資源が消費され尽くされてしまった今、この世界には残された人間全員を養うだけの資源が残っていない。
 だから、『かみさま』によってその間引きが行われる。今の人間社会を維持していくために、公正に、公平に、行われる。この世界に住む誰しもがその間引きの対象になりうる可能性をはらんでいるけれど、理由無く間引かれることはない。
間引かれた人間にはそれぞれ、“間引かれるだけの理由”があった。
 それは、
「一定期間───具体的にどれくらいの期間なのかは誰にも分からないが───、誰にも認識されなかった」から。誰にも認識されない存在を/誰にも必要とされない存在を、養っていく余剰資源なんてないのだから当然と言えば当然だ。『かみさま』は余程合理的な性格をしていると見える。
 その『かみさま』は、どこにいるか分からない。私たちと同じ人間の姿をしているのか、別の動物の姿をしているのか、はたまた生き物ではないのか、それすらも分からない。けれど、実際に間引きが行われているのだから、どこかに『かみさま』がいるのは間違いない。
 間引かれた人間の、“間引かれるだけの理由”が分かったのはつい200年程前の話で、それまではただ
「いつの間にか誰かが消えている」という現象のみが把握されていた。だけどその理由がその理由であるが故に、長らくその怪奇現象については問題視されてこなかった。
だけど、ある年に全世界で人口の統計を取った時はじめて、その現象が“確かに起きている事実”として認識された。明らかに人口が減少していたのだ。少子化、高齢化、自殺率の上昇……考え得る全ての原因を考慮に入れても
「おかしい」と言わざるを得なかった。そこから50年程かけてようやく、先述の理由が判明した。「認識されていないもの」を認識する、という大変な事業だったことを考えると、随分と短期間で解明されたように思える。当時の人々は、その怪奇現象がいつ何時自分に起きるのかも分からない恐怖に駆り立てられて、必死になってその理由を探したのだろう。

 “理由”が判明してからその対策として有効だとされているのが
「出来るだけ誰かを認識し続けること」という対症療法的な対策で。その対策が言い渡された直後こそ皆血眼になって自分を認識してくれる人を探し続けたけれど、それから随分経った今となってはもう、
「人間、死ぬ時は死ぬし消える時も消える」という考え方が一般的になって、普通に生きて、どこかで誰にも認識されなかった誰かが消えていく、今の生き方に収束していった。

 間引きに関して、ある記録が残っている。
間引かれるのを防ぐための対策として、誰とも関わらずに生きていた人間が
“自分で自分を認識しようと”、隙さえあれば鏡で自分を観察していたらしい。やはり、というか何というか、結局その人間は消えて、書き記した記録のみが部屋の机の上に遺されていたという。
「誰も私を見なかった。だから私は私を見続ける。」手記にはそう記されていた。彼だか彼女だか分からない、自分以外誰も自分を認識しようとしなかった誰かの犠牲によって、
「鏡で自分を認識することに意味はない」ことが判明した。