生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

この世界の片隅に、ようやく観ることが出来ました

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 唐突に、夏らしいことをしたくなった。

 河川敷で線香花火、とか、窓辺で夏の装いをしてお昼寝したり、とか、お祭りに行ったり、とか。
どれもこれも、ひとりじゃ楽しくなさそうだけど、独り者だから仕方がない。線香花火は今度合宿に持って行ってひとりでやることにする。

 そしてあほなことに、新しい手帳を持ってきたかと思ったのに使いかけの手帳を持ってきたせいで鑑賞メモがろくに機能しておりません。本当あほ。
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 このスカスカの、ボロボロの脳味噌でも書ける限りの感想/備忘録を書く。忘れたくない映画だったのに、きっと私のこの脳味噌は、既に昨日よりも忘れてしまっている今よりもっと、それを忘れてしまうから。

 まず、街並みが、特に俯瞰した時の街並みが、とても綺麗で、緻密で、素敵だった。あと全体的にタッチが儚くて、よくこれを動画として成立させたな、と思ったくらい。1枚1枚の繊細な水彩画を、よおく気を付けて繋げたような、儚くて消えそうな、朧気な幻のようなタッチ。とても好き。

 主人公すずは、絵が好きな女の子で、海苔作りをする家に育った。
序盤で水原くんという男の子が出てくる。このシーンに心を惹かれた。この男の子は、細くて、目つきも悪くて、ぶっきらぼうで……登場シーンからして(私は)水原くんのことが好きになった。その後の、「海で白い兎が飛び跳ねているようだ」という言葉を編み出した感性にも惹かれた。それを聞いたすずが絵を描いて、背景もそのように変わったところなんてもう、最高だった。
すずはきっと、自分が描いた絵を通して世界を見ているのだと思った。

 後に夫になる周作さんと、親戚一同でご飯を食べる時、何故か彼は机の下でぎゅっと拳を握り締めていた(後ほど彼はその時ご飯を食べていなかったことが分かる)。
すずが回ってきた回覧板に自分の名前を書く時に、「北條」という名字を書き慣れていない描写が差し込まれていて、すずが、本当にそこに生きている人のように思えた。

 二つのバケツを棒につるして肩に掛けて運ぶ時、一緒に歩いていたおばさん三人を転ばしてしまうシーンに見られるような日常生活の中の普通さ/おかしさに、観ている自分が馴れきっていたことに、その時点では気が付かなかった。それ程までに、その世界が私たちの世界と地続きのもののように感じられた。

 Uボートとか、大和とか、武蔵とか、青葉とか。歴史の授業で出てくるような船の名前が出て来た時も、昔の出来事というよりは、“確かに今ここにある景色”のように感じた。

 そろそろ手帳の字が掠れてきている。私の記憶もこぼれ落ちてきた。ここからは急ぎ足で書ききろう。

 配給が少ない時の知恵として、お米を炒って長めに炊いて膨らませる炊き方は知識としては知っていたけど、実際に炊くとああなるのか、と驚いた。配給が少ない時は野草を摘んでいたのか、とも。

 蚊帳で二人の布団を囲っているシーンは、その空間が二人だけの物であること、傍観者である私たちはその外から覗き見ることしか出来ないこと、そういう、二人だけの特別さが素敵に思えた。

 船の絵を描いていただけで間諜だと言ってノートを取り上げて、去り際にはすずが干した着物を粗雑に除けて帰る憲兵たちへの好感度はマッハで0以下まで急降下して気分も悪くなったけど、その後で義母さんと義姉さんが大笑いしてくれたから、幾分気分はよくなった。

 砂糖を水に落としてしまって、闇市で買う場面では、普通の人が、普通に生きていくのすら大変な時代であったことを思わせて、明るい描き方なのに、少し心が痛んだ。

 多分、時間軸としてはその後だったと思う。砂糖事件の時にはまだ彼女はいたから。
“じげんばくだん”で、晴美ちゃんが死んだ。繋いでいた右手の先にいた晴美ちゃんが、右手ごと吹き飛んだ。私はここでもう結構涙腺に来ていた。でもまだ泣かない、まだ早い。そう言い聞かせて、堪えた。

 もう滲んでしまって、ほとんどメモも読み取れない。朧気な記憶を手繰り寄せて、頑張って書き残す。

 水原くんが家に来た。羽をお土産に持ってきてくれた。
納屋の布団ですずが言った「こうなることをずっと望んでいた」からの一連の発言で胸が痛くなって、私自身の心の弱い部分にすずの言葉が突き刺さった。だけど今は周作さんが好きで、もうそうなることはかなわない。ウッ…。

 この後だったかな、どうだったか。もうメモは使い物にならないから、どうだったのかも分からないけど、「○○年前の○月に○○をした右手」「○○年前の○月に○○をした右手」と、こだまするところは流石に無理だった。泣いた。
片手を失って、やりたいことを出来なくなる苦しさが分かるから、泣いた。自分自身が小さい頃、水彩画を描くのが好きだったのもあって、涙が止まらなかった。

 冒頭にも書いたように、すずの描く絵はすずが見た世界そのもので、絵というフィルターを通してこのつらい世界をより楽しいものとして認識していたと言ってもいいのかな、と思った。だけどそのフィルターは永久に失われて、つらい世界と向き合って生きなければならなくなった。

 キノコ雲を○○雲(名前は忘れたけど、嵐が来る前兆の雲)とたとえていたのが印象に残っている。

 すずが右手を失ってからはスクリーンを直視できなくなった。あまりにもつらい。あまりにもひどい。

 終わり方もハッピーエンドなのかどうかも分からないような、はっきりとしたものではなくて、それが余計にその映画が特別な“物語”というよりは“現実に起きたこと”のように感じさせた。

 クラファンに参加した人の名前がずらずらと、つらつらと流れていった(トリスターンって名乗ったの誰だよ笑うわ)。想像以上に多くて、この映画を支えた人の多さに圧倒されて。

 最後の、映倫マークのところで観客席に向かって振られた手はすずの手だろうけど、どちらの手だったのだろうか。右手だろうか。左手だろうか。

 想像以上に自分の脳味噌がポンコツだったことを自覚させられる備忘録になってしまった。機会があったらまた観たいな。完全版の公開が、楽しみになってきた。



 追記:書ききれなかったけど、本当に水原くん関連のところがしんどかった。
「本当はこうなることを望んでいた」のとこがもう、もう、もう。
水原くんのように男らしく諦めるのが正しいのだろうなぁ、と、自分がその時ぼんやりと考えていたことも備忘録として残しておく。