生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

とりあえず置いておくとして、

 今日はMRIの検査を受けてきた。脳を輪切りにする検査を。
MRIは閉鎖空間の中に凶悪な犯罪を犯して拘束された囚人のような格好で放り込まれ、うるさい機械音を聞き続けながら、身動き一つとってはいけない大変な検査だ。それに時間も大層かかる。
 だから私は暇つぶしに、ひたすらどうでもいいことを考えていた。

 人は、自分の姿を自分の目で見ることが出来ない。何故ならば、他ならぬその肉体そのものに、画像を認識する受容体が備わっているからだ。

 鏡で見る自分は、自分ではない。その姿が自分と限りなく似通っていようと、鏡に映る自分に、“わたし”はいない。だから鏡の自分は、わたしではない別人だ。写真や動画も、今の“わたし”がいないという点において、わたしではない。
でも私は、何かを通すことでしか自分の姿を認識することが出来ない。しかもその認識は、明らかに
「これだ!」というような/言えるような、形を持ったものではないのだ。
より厳密に言うと、何かにアプローチして返ってきたフィードバックを元に、
「自分とは“こういう存在”であるのではないだろうか」と推察することしかできない。そしてその推察が本当の答えだとも限らない。

 鏡、ではなく何か、と形容したのは、例えば人間なども、鏡が果たすような役割を同じように果たすからだ。
友人に言葉を投げかけてみる。すると多くの場合、何かしらの答えが返ってくるだろう。答えが返ってこない、というのも答えのひとつだ。
人間は、それぞれの“屈折率”を有する。その人への好感度や自分の考え、価値観、その時々の体調……等様々な要因が、その“屈折率”に作用する。そして同じ入力でも、“屈折率”の違いによってそれぞれ違った答えを返す。
 その全ての鏡像が、“わたし”という存在を推察するために必要なヒントになる。
 私のことを何も考えていない馬鹿者だ、と考えている人は、そういう反応を返す。それもひとつの鏡像であることに違いはない。
 私のことを嫌っている人は、それに応じた反応を返す。それもひとつの鏡像。
 私が誰かに投げかけて返ってきた答えは、全て“わたし”の鏡像なのだ。
不便なことに、現時点において私たちは───そこまで大きな主語にしなくとも、少なくとも私は───そうすることでしか自分を推察/認識することができない。