生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

それは、「幸せ」とも呼べないような

 「幸せ」を感じづらくなっている。
「幸せだ」と思えなくなっている。

 だから、私はどんなに小さな幸せだろうと───たとえそれが「幸せ」とも呼べない些細なことであろうと───、それを
「幸せなことだ」と言い張る。
言い張ることで自分に言い聞かせる。

 例えば。
読んだ本が面白くてページをめくる手が止まらなかった、とか
観た映画が面白くて思わずパンフレットを買ってしまった、とか
素晴らしい絵を観た、とか
ふと思い立って、昔聴いていた曲を聴いたら胸を爽やかな風が吹き抜けていった、とか
会話が苦手な自分でも人と楽しくお話が出来た、とか
髪の毛の調子がいい、とか
ご飯をおいしく作れた、とか。
 それくらい些細な、「幸せ」とも呼べないようなことを目ざとく見つけては拾い集めて、
「あぁ、幸せだ」と言い張る。

 対して、「不幸」を感じやすくなっている。
「不幸だ」と思うことが多くなっている。

 幸不幸は簡単に数値化出来るものではないけれど、それぞれ“なんとなく”大きい/小さいみたいなのはあると思う。幸せは+で、不幸せは-の値なようなイメージもある。
そして、(少なくとも今の)私の心の中には常に、“なんとなく”大きい「不幸」が居座っている。
だから私の心の標準値はゼロではなくて、大きな負の値。マイナスがスタンダード。
 それをどうにかゼロにまで近付けようとして、前述の小さな「幸せ」のような何かを拾い集めて、積み重ねていく。途方もない事業だ。
そうして頑張って積み重ねたものであっても、新たに降りかかってきた「不幸」の雨で呆気なく流されて、倒壊してしまうことだってある。無に帰すこともある。まるで賽の河原のようだ。
 それでも今の私には、そうやって小さな「幸せ」とも呼べない何かを拾って積み上げて、ゼロを目指していくことでしか、心の安寧を保てない。自分が生きていてもいいのだ、と思えない。

 そんな不安定な、賽の河原で過ごしているような心持ちで生きていると、どこからか唐突に途方もなく大きな「幸せ」がやってきてゼロすらも振り切って+の状態になれないかなぁ、と、有り得る訳がない願望を抱いてしまう。
 例えば、推しているアイドル(?)と結婚できたらなぁ、とか。
私の不幸は、それくらいのぶっ飛んだ幸せでもないと塗りつぶせないだろうから、そう空想したりもする。
もしかしたら、そんなぶっ飛んだ幸せでなくても。
普通の、世間一般で「幸せ」とされている何かを経験できさえすれば、私は負の値を帳消しにすることが出来るのかもしれない。だけど、私はそもそも「幸せだ」と思えた経験があまりないから、基準が分からないのだ。どれくらいの、どんな幸せならば、私は負の値を帳消しにして心から「幸せだ」と言えるようになるのか、分からないのだ。

 だから身勝手に妄想する。
きっとそれは私に「幸せだ」と思わせてくれるくらいに幸せなことなのだ、と信じて。