生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

フィクションの言葉に、ノンフィクションの私はとらわれている。

 『私が死んでも代わりはいるもの』という台詞がある。
旧劇だったか新劇だったか忘れたけれど、綾波レイが放った言葉だということには違いないはずだ。彼女はクローン人間で、実際容姿も能力も相違ないクローンが大勢水槽の中で活躍の時を待っている。記憶についてはどうだったか忘れたけど、それ以外の点については全く同一の存在がいたはずだ。そういう意味では、確かに“代わり(の存在)”がいると言えるのだろう。

 でもこの台詞、私は他の捉え方も出来ると思った。そして出来ると思ったからこそ、その言葉にとらわれることがある。
 私は普通の人間として生まれた。今がどういう状態であれ、生まれた時はノンフィクションの人間として生まれた。当然クローンなんていない。いてたまるか。
だけど、そんな私であってもやはり
『私が死んでも代わりはいる』と思うことはある。思うこと“は”、というか常々思っていたりもする。
違うのは、その時々の自分の状態でそれが表層まで浮かんでくるか/心の底に沈み込んでいるかだけで、やっぱり常に心のどこかにはある。
 そしてそれが浮かんできて、浮かびきった時、私は
「自分には代わりがいるのだし死んでしまってもいいか」と、自分の死を正当化してしまいたくなる。
 私はノンフィクションの人間だから、綾波レイのように自分と容姿も能力も相違ないクローンがこの世界のどこかに存在する訳ではないけれど、
“私という存在が果たす役割”は他のどんな人でも容易に果たせるし、
なんならそもそもこの世に唯一の“私という存在”を求めている人などいない(代わりになる人がいくらでもいる)という意味で、
『私が死んでも代わりはいる』と考えて/言い訳をして、生の縁から死の谷に向けて墜落死してしまいたくなる。

 私にとってあの言葉は、恰好の言い訳になった。
それを綾波レイに言わせた人にそんな意図があったのかどうかは知らないけれど、私はそれを言い訳として使うようになった。

“私と全く同一の存在”はいないけど、
“私が果たす役割を全く同一/あるいはそれ以上の質で果たせる存在”はいるだろうから、
「私が生き続けなければならない理由/義務はない」と、まあまあ元気な今でさえ思う。