生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

「服を着る時は麻痺側から腕を通してね」

 入院初期、急性期病院で理学療法士の先生に言われた言葉を、ふと思い出した。

 病気の後遺症で私は片麻痺を抱え、リハビリをしていた。
突然の出来事で、何が何だか分からないような状態で、自分の半身の自由が何できかないのかも分からなくて。直前までサークルでやっていた、合宿に向けての曲の練習のことを心配していた程だった。
当然また楽器を弾けるようにはなるのだろう、と考えていた。だって私は五体満足で生まれてきて、それが標準だったから。

 だから、急性期の病院でも、回復期の病院でも変わらず、リハビリの先生方には
「楽器を弾けるようになりたい」と伝え続けた。病院でのリハビリに具体的な“終わり”はないと聞かされた。そこにあるのは、
“患者本人がどれだけやりたいか”だけだ、と。ならば、と私は伝えた。
「楽器を弾けるようになるまでやりたい」と。
 回復期の病院のベッドはいつも埋まっていて、私が急性期の病院から移る時もようやく空いたベッドに滑り込んだような形だった。
どうしてこんなに混んでいるのだろう、と不思議に思った。でも同室の患者さんや看護士さんと話して理解した。きつい言い方をすると、
姥捨山のような場所になっている」らしい。
本当は退院しても良いくらいには回復しているけれど、諸事情で家族の手には負えない/家に帰しても面倒を見られない、だからといって老人ホームに預けるようなお金もない。だから医療保険を利用して、(確か半年だったかそれくらいだったかと思う)一定の、定められた入院期間の制限に達するごとに、近くの別の病院に移ってまた半年、そっちで制限に達したらこっちに戻ってくる……そんな患者さんもいた。
そっちの方が老人ホームに預けるよりもはるかに安く済むらしい。
私は親がほとんど毎日会いに来てくれたけど、二週間に一度くらいの頻度でようやく、患者さんの娘さんみたいな人がお見舞いに来て必要な荷物を渡し、同室の私たちにも聞こえるような大声で患者さんを罵って帰るような光景も見た。
 私は楽器を弾けるようになるまでは帰りたくないと思っていた。でも同室には、帰りたくても家族がそれを許してくれない、というような方もいた。
当時は余裕がなくて何も考えられなかったけど、今思い返すと本当に残酷で、
(本当に姥捨山のようじゃないか)と悲しくなってしまう。

 そんな理由もあって、回復期の病院は常にパンク寸前の状態だった。退院させられる人がいればさっさと退院させたい、という気持ちもあったのだろう。
 病院でのリハビリは、基本的には入院生活から日常生活に復帰できるようにするための訓練であり、私が望んでいたような「楽器を弾く」訓練は出来なかった。当然と言えば当然なのだけれど。
それでも手作りの、私が練習していた楽器を模した装置を工作してリハビリさせてくれた先生もいた。ありがたいことだと思う。

 だから理学療法の先生は私にこう言った。
「服を着る時は麻痺側から腕を通してね」と。
日常生活を送るなら、自分で服を着ることが出来なければ何も始まらない。
急性期でも回復期でも変わらず、最低限、麻痺を抱えながらも生きていくための知恵を学ばされたように思う。
最低限、普通の人間らしく振る舞えるようにするための訓練だったように思う。

 入院当時の私は、
(リハビリさえすれば元の身体に戻って楽器も弾けるようになる。だからリハビリを続けたい)と考えていた。
でもそれは間違いで、私はどれだけリハビリしようがもう楽器を弾けるような身体ではなくて、日常生活に戻れると判断された段階で私は退院させられた。これ以上は病院の手に負える問題ではない、と言わんばかりに。

 持っていた、買ったばかりの楽器は知り合いに売り払った。買った楽譜は全てサークルに寄付した。だって、退院して家に帰ってから毎日どれだけ練習しても弾けなかったから。

 そんな、もう忘れることが出来そうになっていた記憶が、着替える時の着替えづらさで思い起こされた。