生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

色眼鏡と型

 慣用句として、「色眼鏡をかける」という言葉がある。そしてそれは、“偏見とか、余計な第一印象によって作られたフィルターを通して物を見る”みたいな、ネガティブな文脈で使われることが多い。

 同じく慣用表現としての「型にはまっている」という言葉もある。それもまた、“価値観や常識にとらわれている”みたいな、ネガティブな文脈で使われることが多いだろうと思う。

 でも。でも、と思った。
色眼鏡をかけていない人なんて/型にはまっていない人なんて、そうそういるものでもないんじゃないか、と。
それぞれ違った固有の価値観や常識を基盤に生きてきた/いる人間ばかりだろうし、
そんな中で色眼鏡をかけずに型にもはまらずに物を見ることってなかなか出来ないことだし。
そういう、どちらにもとらわれていない人って逆に特殊な部類に入るのではないだろうか。

 色眼鏡をかけていて普通、型にはまっていて普通、だと思う。しかも人それぞれ違った色眼鏡を/型に。
 だからこそ私は、同じものを見たとしても全員同じ感じ方をするとは限らないと考えているし、それもまた面白きことだと感じる。例えば信号の“進め”という指示が青に見える人がいれば、緑に見える人もいるように。
人それぞれ感じ方が異なるからこそ、そこに固有の物語が生まれる。その人だけの物語が紡ぎ出される。

 そう考えると、色眼鏡をかけて/型にはめてものを見ることも、そう悪いことではないと思ったりもするのだ。
 私の敬愛する師匠は、独特なものの見方をする(褒めてる)(褒めてます)。表現方法云々の問題以前に、そもそも私と師匠では見えている世界が違うのではないかとすら思うくらいに。そして独特な文章を書く。
私はその、師匠の書く独特な文章が好きで好きでたまらない。最初にその文章を読んだ時、
(今の私にこれは書けない。いつかこれを書けるようになるために修行したい。だから文章を書き始めよう)と思った。
 だけどしばらく文章を書いたり、不意に憂鬱症の谷に突き落とされたりしてようやく気が付いた。
(残酷なことだが、あの頃の私に限らず、今の私がこの先どんなに修行を積んだところであの文章は書けないだろう)ということを。
そもそも、ものの見方、つまり入力した情報を自分の中にしまい込む時の変換方法が違うのだから、同じ出力が出来る訳はないということを。

 私は私固有の色眼鏡をかけていて、私固有の型にはまっている。それらを通してものを捉えながら生きている。
私が見た/見ている世界を他の人が同じように見ることは出来ない。何故なら他の人は私ではないからだ。けれど文字という共通のツール、フォーマットに落とし込みさえすれば、私以外の人であっても私が見た世界を疑似体験的に視ることはできる。

 私は、他ならぬこの私が見て、視た世界をそうやって文章に上手く落とし込み、他の人と共有したいと考えている。
私が師匠の本にかけられたような呪いを、同じように他の人にかけることが出来たとしたら、それは多分、私にとって幸せなことなのだと思う。