生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

私のことを、親はほとんど知らないのだろう

 帰宅してすぐに服を脱いで、下着姿になった。慣れないことをして、かちこちになった身体を解放するために。
そして晩ご飯を用意して、食べて、一息吐いてから、自分の部屋の窓を全開にして、虫の声と生温い風の進入を許可した。
ハートランドひと瓶と、秋味ひと缶を空けた。秋味は明日の分に回そうかと思っていたのだけれど、ハートランドが存外に少なくて、美味しくて飲みやすくって、一滴も残さず飲みきってしまった。

 そうして今私は、ぽかぽかになったお腹を自覚しつつ布団に横たわりながら、これを書いている。
文章で物を考える性分であるが故に、何かを考えようとする時にはどうしても文章に出力したくなってしまうらしい。
このブログ以外にもたくさん、その痕跡が残っている。EvernoteやZenfone付属のメモアプリ、Twitterやなろう。様々な場所に、書いた当人すら覚えきれない程の文章をまき散らしている。
まぁ、覚えていても読み返さないのだろうけれど。以前自分が書いた文章を、後になって/冷静になってから読み返すことほど恥ずかしいこともない。


 アルコールは、ひとつの負荷である。
何に対する負荷かと言えば、自分自身が無意識のうちに脳に施しているリミッターに対する、負荷である。
 また、私のように口で話すのが得意ではない人種にとっては、話すことも負荷になる。
 昔所属していたコミュニティーは、その両方の負荷をいっぺんに(加えて人間関係への気遣いという負荷も含めて)、私にかけていたのかもしれないな、と思った。そりゃあリミッターも容易に解除されてしまうわ、とも。

 私は長い間そういう環境に在ったから、多分ハートランドひと瓶で参ってしまうのだろうと考えた。
けれどもその予想は間違っていて、あの頃受けていた負荷を、今は感じない。まぁ少し、脳の回路が誤接続されている感を感じなくもないけれど。


 未だに窓は開けっ放しで、虫の声も生温い風も、相変わらず部屋に入り込んでくる。まぶたは少し重いけど、絶えず浮かんでくる思考を鎮めるほどではないみたいだ。だから私は書き進める。酔ったという体でぽかぽかしているこの身体と頭から、文章を捻り出す。さて、この先どう転ぶのだろうか。これを書いている自分でも分かっていない。

 昨日今日で、自分がカタワであることを不意に強く認識した。両の足で地面を蹴って飛び跳ねている写真を見た時に/目の前を歩く人が当然のように両手に荷物を持っているのを見た時に。どちらも今の私には出来ないことだと無性に悲しくなった。羨ましく思った。
やっぱり私は、昔所属していたコミュニティーの公演に、どんな形であれ足を運ぶことは出来ないのだろう、と思った。でも問題はない。私がそこに足を運ぶことを期待している/望んでいる人は、ただのひとりもいないのだろうから。

 ああ、また少し、悲しくなってしまったような気がする。自分の気持ちは分からないけれど、頭の辺りがぽかぽかしてきたということは多分、そういうことなのだろう。

 愚かだ。愚かだと思う。自分のことを。想いを伝えるべき相手に伝えなかった癖に、伝えるべきではなかった相手に伝えて、全てを失った自分自身のことを。取り返しが付かなくなってからそのことに気が付く自分の間抜けさを。

 今の私はそこまで酔っている訳ではない。少し眠気を誘われる程度にしか(しか、という認識すら少しおかしいのかもしれないが)酔っていない。
けれども、今の私がもし、当時想いを伝えるべき相手に会えたならば、それが決して成就しないと知りながらも想いを伝えてしまうだろう、というくらいには酔っている。そしてきっと、この想いは秘匿すべき機密であり、未来永劫相手に伝わることは無いのだろうと思う。
それでいいのだと、自分に言い聞かせることが、今の私に出来る最善の策なのだろう。悲しくて泣きたい時には連動しないくせに、泣きたくない時には勝手に作動する、おんぼろの涙腺が活動を開始して視界を滲ませる。

 私には、視界が滲む理由が分からない。だって悲しい訳ではないのだから。歳か、歳のせいか。眠気にすら打ち勝って視界を滲ませる涙腺が、何を原動力にして働いているのか、私には分からない。

 虫の声は止み、部屋は凪いだ。そろそろこの、何も考えずに殴り書いている文章を、切り上げる頃合いなのだろう。オチはない。私とわたしが書いているいつもの記事のように、この記事にもまた、オチはない。酔っ払いの書く記事にオチを期待して臨む酔狂はいないだろうけれど、それだけは最後に断っておくことにする。