生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

訳が分からなくて、頭の回路がショートしそうになる

 忘れてもいいことなのだろうけれど、忘れた方がいいことなのだろうけれど。
きっと私は忘れた瞬間に、またあのいつもの“喪失感”を抱いて、憂鬱症を深めるだろうことを知っているから、なりふり構わず書き留める。

 これもまた、以前に書いたことなのかもしれない。覚えていない。読み返そうとも思わない。
物を書く人間の心構えとしては失格なのだろうけど、私は未熟者だからと開き直ることにする。


 やっぱり私には、何事も等価交換によって世界が回っているようにしか思えないのだ。
 お金を支払えば、それに応じた財や用役が提供される。とても分かりやすい考え方だ。質量保存の法則にもかなっている。
 ならば、と。ならば、それは人間関係にも適用されるのではないか、と私は考える。
何故ならそれが、私にとってはとても簡単で、分かりやすくて、理解しやすくて、受け入れやすい考え方だから。

 人は他人に何かを提供し、その見返りとして何かを享受する。分かりやすい。それならば、馬鹿な私にだって理解できる。

 以前、知人にそういう私の考えを伝えたことがある。それ以外の考え方を、私は知らなかったから。私の考えを聞いた知人は、
「そんな単純な話じゃない」と怒った。
「私はお前と一緒にいたいから一緒にいる、ただそれだけのことでそれ以上でもそれ以下でもない」とも、怒られた。

 知人は怒り、私は怒られた。それでも私は分からなかった。
(そもそも何故私と一緒にいたいなどと思うのだろうか)という新たな疑問すら湧き上がった。

 だって私はその知人(に限らずほとんど全ての他人)に対して何も与えることが出来ていないから。何も与えるものを持っていない人間が、誰かに何かを与えることは出来ない。何も持っていない私は、何も相手に渡せない。
何かを渡して楽しさを得る/貨幣を支払って財を得る。
私は自分が会いたくて会っている人から、楽しさを得ている。ならば私は何かを提供せねば釣り合わない。だけど私には何もない。私は相手から何かを貰ってばかりで、何も与えることが出来ない。

 知人と会う度、会って楽しいと思う度、私は負い目を感じてしまう。私なんかと一緒にいても楽しくないだろうに、何でこの人は私と一緒にいてくれて、その上楽しませてまでくれるのだろうと考えてしまう。
私を楽しませてくれても、私からは何も与えられないのに、と。

 多分、これは答えのない問いだと思う。
以前知人に怒られた時のような答えを提示されたとしても、私はまた納得できないまま悩み続けるだろうと思う。
先が見えない道を歩んでいるようで、とても苦しい。もしかしたらこの道には、終わりすらないのかもしれない。