生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

雷の音は怖くない

 それが自分(のみ)に向けられたものではないと思えるから。

 多くの自然音は私にとって脅威ではない。自分が動くことによって起きた人為的な自然音も同じく。
 自分でかけた音楽も怖くない。自分で自分に向けたものであり、自分が制御できるから。
 シネマシティの極上爆音上映だって怖くない。むしろ大好きなくらいだ。

 だけど、他人の手によって発せられた人工的な音は怖い。
平時には、自分の被害妄想だろうとは思える。けれど、いざそれを耳にした/してしまった時に、私はその意図にかかわらずそれに責められているように感じてしまうのだ。滑稽な話だろう、でもそう感じてしまうのだ。
憂鬱症に関係あるのだろうか。
半身麻痺で片耳の聴力が衰えたとはいえ、その左右の聴力差で聞きづらくなることもあるとはいえ、私の耳は両耳とも、健常者と変わらず/あるいはそれ以上に物を聴くことが出来る。聞くことが出来てしまう。
多分その聴覚過敏も、関係あるのだろう。

 具体的には、
 他人の───特に嫌いな人の───独り言。そのほとんどが、自分のことを責めているように感じられて、言葉が自分の周りの空気を支配して私を押し潰そうとしているように思えて、怖い。
というか、他人の───特に嫌いな人の───立てる音。足音、咳の音、その人が観ていて私は観ていないテレビの音、それら全てが怖い。
同じく私を責めているようで。

 今使っている部屋に据え付けてある、電話の受信音。
最初の内は取ろうとしていたけれど、大体が営業目的の電話だと分かってからは取らなくなった。早く切れてくれないか、とすら思う。
だけどそうやって居留守をした後、その電話は留守番メッセージを大音量で流し始める。定型の、お決まりの文句じゃない。
私を産んだ女性がまだこの家にいて、この部屋で仕事をしていた頃、彼女が吹き込んだメッセージが入っている。何のこだわりかは知らないけど、本文が始まる前に何故か音楽が流れ始めて、その後声が垂れ流される。その時間が苦痛で仕方がない。
電話のマニュアルがどこにあるかも分からない私には/その製造元がweb上で公表している電子マニュアルが破損していて読めない私には、それを制御できない。その音を、声を、止められない。
だからその音声が流れている間、私はずっと毛布と布団を被り、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
本当、こんな歳になってもまともに電話すら取れない上にそれに恐怖心を抱いてしまう自分が情けなくて仕方がない。
何なら、こちらから電話をかけることすらも苦手なのだから、本当に人間をやるのに向いていないなぁとも思う。

 関連して。これは相手にかかわらず、その相手が好きか嫌いかにも依らず、いわゆる“会話”を構成するものが怖い。
それが音の形をとっていようとも、文字の形をとっていようとも、怖い。
何故ならそれが私には制御出来なくて、予測も付かないものだからだ。
怖い。次にどんな言葉が飛んでくるのか分からないから。
怖い。私が投げ返す言葉が正解なのかも分からないから。

 怖い。怖い。怖くて怖くてたまらない。
だけどそれを克服出来ないと、私は一生孤独から脱け出せないことも知っている。
だから誰かと関わりたい私は、その恐怖に打ち勝たなければならない。そうしないと、いつまで経ってもこのままひとり寂しく内側を向き続けながら生きる羽目になる。
 年を重ねれば克服できると思っていた。でも勘違いだった。
予測できないものが怖い。だけど孤独でいるのはもう嫌だ。私は、いい歳してそんなワガママを言っている。
私が予測できないものしか、私を孤独から連れ出すことは出来ない。私が予測できる/できてしまうものではそれはかなわない。

 憂鬱症から抜け出せたならば、予測不能な音/事象に、自分を責められて/押し潰されているかのように感じなくて済むのだろうか。音を怖いと思わなくて済むのだろうか。そして、

 孤独からも解放されるのだろうか。