生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

得られない幸より得られる偽幸(?)

 「どこかにきっとあるはずの本当の幸せ」なんてものはどこにも存在してなくて、
「本物ではないかもしれないけれど今確かにここにある、幸せのような何か」しかないんだろうな、とふと思ったというだけのお話。


 特に、今自分が幸せではない人/幸せではないと思っている人は、というかそんなに主語を大きくしなくてもいい、今これを書いている私は。
「どこかにきっと、本当の幸せがあって、それを見つけて掴めさえすれば自分は不幸から脱け出して幸せになれるはずだ」と常々考えている。だけどさっき、お風呂で髪の毛を洗いながら思った。
「本当の幸せなんて、どこにもないんじゃないか」と。
「幸せのような何かを幸せだと信じることしか出来ないんじゃないか」と。
そして何となく、“やらない善とやる偽善”の話を思い出した。この場合は“得られない本当の幸せより得られる偽の幸せ”とでも言うべきか。


 とにかく、どこにあるかも分からない“正解”の札を探して勝負するのが非現実的であることと、
“不正解”であろうと今自分が持っている手札ででしか勝負できないことは
自分にはどうにもできないのだから、やはり
「“正解”ではないかもしれないけど、今確かに手元にある手札」をどうにか上手く運用して「“正解”と思い込むこと」が、今の自分にとっては一番精神的な負荷が少ない方法のように思える。

 何を幸せかと思うかは人それぞれだろう。
ならば「これこそが万人にとっての“本当の幸せ”だ!」だなんて言い切れるような、確固としたものはない。
自分よりずっと幸せそうに見えるあの人もあの人も、別に“本当の幸せ”を掴んでいる訳ではなくて、手札を上手くやりくりして“本当の幸せのような何か”を得ているのだろうな、と(いや分からん。本人は本当に自分が“本当の幸せ”を掴み取ったと思っているかもしれない。その別は、傍目から見ても分からん)。


 自分の中から不意に湧き上がってくる、
「幸せか?」という問いに対して、その時の状況がどうであろうと、無根拠に自信を持って
「うん、幸せ!」と答えられるようになることが、私がこの憂鬱症から脱け出すための手段の1つなのだろうな。
終わりがないように見えるこの病の、1つの終着点なのだろうな。