生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

自由という名の不自由、不自由という名の幸せ

 少し前に「リスク」という言葉を知った(もしかしたら前にも書いたかもしれないけれど以下略)。

 選択肢/他の可能性があることをリスク、という。選択肢があればあるほど、リスクが高いということになる。
 逆に、全く選択する余地がなくて、答えがただ一つに決まっている/可能性がただ一つに絞られているものはリスクがないということになる。
それぞれ危険、安全、と訳されることが多いけど、別に安全であるとは限らないので、単にリスク、“無”リスク、と訳してしまうこともある。

 例を挙げる。50%の確率で値上がりし、40%の確率で±0、10%の確率で値下がりする資産は、リスクがある。
100%の確率で値下がりする資産は、リスクがない。

 ここでいうリスクは危険性ではない。
だって100%値下がりすることが分かっていたら、それに応じた対応が出来る。「100%損する」をしない、ということが出来る。でも色々な可能性があると、そういう対応は出来ない。


 この概念を、もう少し身近な話に適用してみる。
私みたいな人間は、
「君にはこういう選択肢の中から好きなものを選ぶ権利がある」なんて言われると困ってしまう。
本当は自由なはずなのに、そこに
“自分の考えで選び取らなければならない”という要素が加わるだけで、不自由に感じてしまう。
“考えない”を選べないというだけで、自由は不自由になる。
 逆に、
「君にはこれ以外に選び取ることが出来る選択肢なんてひとつもない、この道しかない」と言われてしまった方がよっぽど幸せだと思える。
“考えない”を選べる不自由の方が、幸せに思える。

 “選ぶ余地がある”のは今の私にとって自由ではない。選ぶということは、他の何かを選ばないということだ、とかいう言葉をどこかで耳にした覚えがある。どこだろうか。何かのアニメなようが気もする。まあそれは些細な要素ではない。「スキップします?」スキップしよう。
 選ぶことにより、選んだ責任を追わねばならないのは、やっぱり不自由なことに思える。
無責任だと言われるかもしれないけど、責任を負えるほど頭が良い訳でもないのだ。
頭を使える訳でもないのだ。
 だから。選んだ責任を負いたくないから。
選ばなかったことに対して後悔したくないから。
自分で選んだ道が間違いだった、ということを突きつけられたくないから。

 不自由、というのは(ある程度)自由な私にとって、幸せなことのように思える。
きっと、隣の芝が青く見えてしまっているだけで、いざ今の自由を奪われて不自由になったら、自由を羨んでしまうのかもしれないけれど、少なくとも今の私にとって
「自由は不自由」で、
「不自由は幸せ」だと思う。