生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

目を閉じろ、耳を塞げ。何も見るな、何も聞くな。

 外界との接触にはいいことも悪いこともある。
人によってはいいこと悪いこと、差し引き0以上になって結果的にはいいこと優位になる。
またある人にとってはいいこと悪いこと、差し引き0未満になって、結果的には悪いこと優位になる。
 そしてどうやら私は後者らしい。

 ヒトは小さくて弱い。だからこそ群れを成して社会を形成した。群れることで生き延びた。
それ故に根っこの部分に“群れることへの欲求”やら“群れから外れることへの恐怖”やらがあるのだと思う。
 一方で、
「ヒトは根本的には孤独な生き物である」という考え方にも出会ったりする。文学らへんで拗らせてる人に多い印象がある。その気持ちも分からなくはない。
脳味噌の状態は人によって様々だし、考え方が全く同じ人なんてそういる訳でもないし。
自分の考えを理解してくれる人がいない/自分を認めてくれる人がいない、だから根本的には孤独なのだ、と言ってしまいたくなる気持ちが分からないわけでもない。

 そうは言ってもやっぱり、単騎だと弱い生き物であることに変わりはない。孤独である(のは当然のこと)と思いつつも、心のどこかでは群れから外れることへの恐怖は抱えているんじゃないかと考える。

 私も、単騎だと弱い。後天的な病によってその弱さはさらに強調された。
 だけど、だからといって群れることで強くなれるのかと言えばそうでもないらしい。逆に、群れることで孤独が深まる類の人間みたいだ(他人事)。
自分はやっぱり(悪い意味で)変な子だから、仮に群れの中に在ったとしても理解してもらえたり認められたりすることがない。
その、物理的には孤独ではない/なかったはずなのに精神的には孤独である/あった、という対比が、どこのコミュニティーにも属していない今以前から/どこかに属していた頃から続いていた気がする。要するに、「今に始まったことではない」ということだ。

 そして今は物理的に孤独な一方で、電子的には誰かと繋がっている。誰と誰が繋がっていて/繋がっていないかが可視化されているフィールド上に、私も存在していて、切れそうなくらいに細い繋がりを有している。
それでもそういう、繋がりが可視化されているフィールドは、物理的な社会と何も変わらないように思う。ただ、社会を形成する世界が、物理から電子に移行しただけだとも思う。
 だけど、そんなフィールド上で起きている“繋がりの可視化”は、かえって私の精神的な孤独を強めた。“繋がりの可視化”は“繋がっていない”も可視化した。
 物理的な孤独は、電子の世界を経由して精神的な孤独に回帰した。物理と精神が、“孤独”という答えにおいて一致した。
そして思った、最終的に行き着く答えが孤独であることに変わりがないのならば、電子の世界を経由したのは遠回りだったのではないか、と。そこを経由してさえいなければ、無駄に傷つく必要も無かったのではないか、と。

 物理的にも精神的にも孤独な人間が、その孤独から脱却しようとして外界と接触すると、やはり悪いこと優位な結果しか得られないように感じる。

 目を閉じろ、何も見るな。耳を塞げ、何も聞くな。
それ以上孤独に傷つけられないために、外界との接触を絶て。