生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

書いたような気も、書いてないような気もする。私の記憶は当てにならない。

 こう言うと当該集団の知り合いはちょっとムッとするかもしれない(しないかもしれない、わからん)けど、私は昔から、あまり“普通の集団”に属せていなかった。

 ずっと“普通じゃない”というか、“普通からは少し外れた”集団に属していた。
そっちの方が心地良かった上、そもそもそういう集団じゃないと私みたいな人間を受け入れてはくれなさそうな気がしたから。
実際、今まで属していた集団のほとんどは私を受け入れてくれていた(ように自分では勝手に思っている)。

 そして今、あまり望んでいなかった形で“普通の集団”に属している。将来のためにやむなく、という感じだ。
 そこではじめて、薄々感じていた
「今まで自分が属していた集団のほとんどが、普通とは少し違うこと」を明確に認識した。そしてやっぱり、私にはいわゆる“普通の集団”は合わないなとも思った。
 最後に属していた“普通とは少し外れた集団”はとても居心地が良くて、そこに属するほとんどの人が“普通”から解放されているように見えた。“普通”であることより、自分の好きなことを好きなようにやることを優先しているように見えた。

 一方、私が今属している集団はとても息苦しい。
何故なのか理由が分からなかったけど、二泊三日を共に過ごしてようやく察した。彼(女)らは、“普通”であらねばならない、という強迫観念の中にあるのだ。
 まるで“普通”から少しでも外れてしまったら、その瞬間に社会から見放されてしまうとでも考えているかのように、必死で“普通”であろうとしているのだ。

 “普通”なんて、どこにも確固とした基準がないふわふわとした概念なのに、それでもほとんどの“普通”の人は必死にそれにしがみついているように思える。
 と、他人事のように言いつつ、私も私で“普通”から少し外れてしまっていることに引け目を感じて“普通”になろうとしたことはある。
だけど私は“普通”に至ることは出来なかったし、そこに至るまでの道程で感じた息苦しさは、私に“普通”になることを諦めさせるには十分だったし、つまりはそういうことだ。
 その集団/似た集団しか知らないと、その集団が
「社会全体から俯瞰した時にどんな立ち位置にあるか」すらも分からないもんだ、と思った(こなみ)。

 “普通”なんてどこにもない。蜃気楼のようなものだ。
だからこそ“普通”でありたい人たちは、“普通”であるために“普通じゃない人”と自分は違うことを証明し続けようとしているように見える。
“普通じゃない人”を“普通”の立場から叩きのめして快感を得ているように見える。
「“普通”こそ至高であり、“普通”である自分自身は間違っていなくて、“普通じゃない”お前たちこそ害悪であり、私たち“普通の人間たち”を脅かして誑かし、“普通じゃない”に引きずり込もうとする存在だ」
とでも言わんばかりに、“普通”の人たちは、“普通じゃない”を血眼になって探し出して、それを仲間と共に集団リンチをしているように/それでようやく安心して暮らしているように見えて仕方がない。

 だから私は疑問に思うのだ、
彼(女)らは生きていて楽しいのだろうか?と。