生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“シャワーを浴びている時に感じる他人の気配”にもそれらしい定義/説明が付されるのだろうか

 経済学で“余剰”という概念について学んだ気がする。でもその記憶すらあやふやだから経済学部の人に突っ込まれたら終わりな気もする。


 たしか、人は(社会は?)最低限生活するためのリソースとは別に“余剰”というものを持つことで技術を発展させることができる、みたいな概念だったような……。やっぱり記憶があやしい。
 生活するだけでいっぱいいっぱいだったら何かをより高度なものにすることすら出来ない、みたいな理解をしましたよ、私は。A取れてたしまぁそんなもんやろ、感。

 余剰の話は(合ってるか怪しいから)そこそこにして。
今、世界はどんどん可視化されてきている。
見えなかったもの、見えてはいたけどぼんやりしていて掴み所がなかったもの、あるいは目を逸らしていたもの。それらは名前を付けられて、定義も付けられて、“形がある見えるもの”になってきている。
 例えば病気とすら認識されていなかった、その人の個性だと認識されていた発達障害だって、名前を付けられて定義付けされて、投薬による退治方法(対症療法)が生み出された。実際それによって助かっている人もいる。それは良いことだと思う。

 科学によって、怪異だったもの/得体の知れなかったものの正体は暴かれていく。妖怪だって幽霊だって、UMAだってUFOだって、科学的に解明されていく。世界から、“よく分からないもの”が取り除かれていく。
 医療の世界において、それはとても大事なことだと思う。人の命に関わることだし。


 だけど私はこうも思うのだ。まだ世界に残る“よく分からないもの”という“余剰”は、私たちに想像の余地/ロマン/定義された世界からの逃げ道を与えてくれる、ある種の避難場所でもあるんじゃないか?と。

 全ての謎やよくわからないものが解明され、暴かれ、定義付けされた世界というのはつまり、“余剰”を全て消費しきって停滞した/可能性が全て塗り潰された世界だと思う。でもいずれ───私が死んでから何年後かは分からないけど、それでも───やっぱり全てが暴かれて、停滞するのだろうな、とも。
 命に関わるようなことでもない限り、誰かを傷付けるものでもない限り、不思議なものは不思議なままでいいんじゃないかなぁ、そっちの方が面白そうだし、と、無責任に考えてしまうのだ。