生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“普通じゃない”は“治療”によって“矯正”される

 まだまだ未熟な人類は、多様性の中で様々な可能性を模索して進歩していく余地があるのにね。


 昔は個性として扱われてきたものが、今や脳内物質の異常によるものと判明し、“病気”だと定義されている。ひとつの個性が、その社会の中で生きづらい/その社会の中ではおかしいとされる、という理由から、“薬で治療し、矯正されるべき病気”とされている。

 その治療は個性を塗り潰していく。多様性を狭めていく。
それでもこの社会の“最大多数”は、これからも自らの最大幸福を得るために、最大多数以外の存在を視界から抹消し続けるだろう。
そしてまた、最大多数の中の最大多数が、それ以外を無視しながら社会を進めていく。そんな気がしてきてしまうのだ。


 私は“普通じゃない”。“普通”以下という意味で、普通じゃない。
だから治療を受けている。“普通じゃない”を抑えるための、薬を処方されている。
たしかにそれを飲んでいると、この社会の中では生きやすくなったような気持ちになる。多分、薬によって“普通じゃない”が抑えられて、この社会の“普通”に近付けられるからだろう。
だけどその薬を飲み忘れた途端に、この社会の“普通”は私に差し伸べた手を引っ込める。やっぱり私は、しばらくこの薬を飲み続けなければならないようだ。この社会の“普通じゃない”から“普通”に、自分自身を矯正するために。

 この社会の最大多数(普通)はホストで、それ以外(普通じゃない)はゲストのようにも思える。私たちは、ホストが“自分たちが暮らしやすいように整備してきた社会”に「お邪魔させていただいている」ゲストでしかないように。
 そしてホストは、私たちゲストを歓迎していない。それどころか努めて「いないもの」として扱おうとしているように見える。
それでも“普通じゃない”の中でも勇気と声量のある人が、
「(“普通”から見て)うるさく権利を主張して騒ぎ立てる」から
「仕方なく」“普通”の人々は“普通じゃない”人のためにこの社会を「整備してあげている」ような気持ち。気持ちは分からないでもない、だってお金にならないもの。最大多数のためにならないもののためにただただお金を使うのは、無駄遣いと思えてしまうのだろう。

 “普通”からドロップアウトして、“普通じゃない”になったと思い込んでいる人々がいる。
そういう人々は、“普通”と同程度の力や声量で、自らが“普通じゃない”ことを主張する。そちらは“普通じゃない”人が声を上げるよりも声量が大きい分、対応されるのも早いように見受けられる。
 具体的に言うと、高齢者の方々の中に紛れ込んでいる、ネットスラング的に言うと「老害」と呼ぶべき人々などがそれにあたる。
 彼(女)らが、“普通”でいられているのにもかかわらず、“普通じゃない”を装うところを嫌になるくらい見た。二年前の夏、あの地獄のような数ヶ月の間、私は見たくもないのに見せられ続けた。
同室の人間相手に、私以外の他の同室の人間についての陰口を叩く人間がいた。
お見舞いに来た、まだ無垢な子供を宗教に勧誘している人間がいた。
夜遅くに廊下から、その場で決まっているルールに対してクレームを入れる大声が聞こえてくることがあった。
制度を悪用(?)して費用を抑えようとする家族もいた。
他にも色々とあった。
あの数ヶ月間は、私に“普通”と“普通じゃない”の差を理解させるには十分な期間だった。二度と経験したくないと思うくらい十分に、私はその二つの差を理解した。“普通じゃない”を装う“普通”の存在を、再認識した。

 十中八九私が読んだ本の影響なんだろうけれど、私はいずれ、今ただ単にひとつの個性とされているものすらも、場合によっては
「薬による“治療”によって“矯正”されるべき“病気”」と定義されてしまうような気がする。それが
「医療の発展によって自然に生まれた薬の効能に、その時の社会にとって“少しおかしい人”を治す効果があると認識されたから」という理由によるのか、
「その時の社会が“少しおかしい人”を排除しようとしたから」という理由によるのか、どちらが先かは分からない。
 分からないけれど、そうなってもおかしくない、と、“普通じゃない”私は思うのだ。