生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

この世界の中心には誰もいない。何もない。

 マントルだの内核だのがあるだろう、という話ではない。だからといって、旧支配者がいるのではないか、だなんてオカルティックな話でもない。
そんな遠くの話じゃなくて、もっと身近で、自分に関係する話だ。


 この世界は、今私たちが生きているこの世界は、誰を中心にして回っているのか?
政治家か、資産家か?政治的には/経済的にはそうかもしれないけれど、もっともっと抽象的/形而上的に、
“この世界を回している存在”は?と問いかけた時、きっとそこに当てはまるものは何もないだろう。少なくとも人類の中には。そして今観測出来る範囲の中では。

 一方で、私の世界/私が自分の全身の感覚器官を総動員して感じて頭の中の演算装置で認識している世界はおおむね、私を中心にして回っている。
 それでも、私は物理的にも精神的にも弱い人間だから、たまに物理/精神的に力を持った人間に影響を及ぼされて“私の世界”の主導権を他人に奪われることもある。だから“おおむね”なのだ。
 そしてそれは、私以外の人間も同じなのだ、と私は考えている。
他の人も同様に、その人自身が中心になって回っている世界で生きているのだ、と。

 ようやく気が付いた。当たり前のことなんだけど、自分自身が“自分が自分の世界の中心ではないこと”をたまに経験しているがために、私はそれに長らく気が付くことが出来なかった。
私は私の世界の中心にいて、他人はその人自身の世界の中心にいる。

 だから。他人は少なくともその人自身の世界で通用する価値観で生きているから、その価値観が私の世界の価値観と全く同一のものであるとは言い切れないのだ。
この世界の価値観に自分がどれだけはまっているか、という話ではない。この世界の価値観と、他人の価値観が同一であるとも限らない。
 私自身が「気が合う」と思い込んでいる他人も、私の世界の中心ではないし、同様に相手から見た私もその人の世界の中心ではない。

 それでも自分の世界の中心にはおおむね自分自身がいるから、やっぱりこの世界の中心には自分がいると思ってしまう。私も一時期そうだったけど、そういう人たちをネットで見かけることがある。この世界の中心には、自分の世界と同様に自分がいるのだ、と。この世界は自分を中心にして回っているのだ、と、思い込んでいる人たちを。

 本当に厄介だと思う。自分の人生を順調に生きてこられた人ほど、気が付きづらさが増すという点において。
 そういう人たちは、自分の基準がこの世界全体共通のものだと信じて疑わない。たまたま今まで“この世界の基準に自分が影響されていたから、基準が一致していたというだけのこと”に気が付けない。

 順調に生きてこられなかった、所々で躓いてきた人間は、躓いたところでそれに気が付く機会を得る。この世界の中心に自分はいない、と。
 だけどそれだけだとあまりに救いがない。
確かにこの世界の中心には誰もいないし何もない。それでも自分自身の世界の中心には他でもない自分が居座ることが出来るのだ。
 だから自分自身の世界だけは、自分の意思で回すことが出来るのだ。誰から影響を受ける/受けないのかも、自分の意思で選択出来る。そこには、自分の意思が通用する。


 だけど次のことは胸に留めておかなければならない。
「自分の世界は自分の意思で変えていけるけれど、他人の世界は自分の意思で変わるとは限らないし、この世界もまた同様である」と。
 「自分はある人といると楽しいと思う、だから一緒にいたいと思う」。ここまではいい。
「自分はある人といると楽しいと思う、だから一緒にいたいと思うし、相手も同様に自分と一緒にいたいと思っているに違いない」。そこまで行ってしまうと駄目ということだ。それは傲慢というものだ。

 私は長らく行動を共にした、あるひとりの友人の人生が、この先私の人生と交わることはほとんどないのだろうな、ということに気が付いてしまって考えた。
 長らく行動を共にしてはいた/できてはいたものの、それは私の世界の中での価値観と友人の世界の中での価値観が“その時たまたま”類似していただけのことだったのではないか、と。
だからもう行動を共にすることも少ないこの先の人生で、自分とその友人の価値観の間の差は今以上に開いていくのだろう、と。
 少し寂しい気がしないでもない。
その友人がどう思うかは知らないけれど、少なくとも私の方では、この先の人生が相手のそれと交わらないことを少し寂しく思う。