生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“怒り”恐怖症

 私は理不尽な“怒り”を浴びせられてきた。その結果、“怒り”恐怖症になった。


 怒る、という感情は、まぁそれなりに───喜怒哀楽の中に挙げられている程度には一般的な感情だと思う。その1/4を怖がっている私はやっぱり、コミュニケーション不全だということなのだろう。うん、知ってた。

 私は、単に怒られることにだけ恐怖心を抱いている訳ではない。自分でも不思議に思うのだけれど、自らが怒ることも怖い、と感じてしまう。どう表現すれば正確に伝えられるのか分からないけど、怖いと感じてしまうのだ。
 怒られることへの恐怖心は、他の人にも容易に理解してもらえると思う。だけど、怒ることへの恐怖心に関しては理解してもらえる自信がない。何というか、その……。
その“怒り”が理屈にかなったものである自信も、正当なものであると言い張れる根拠も、私には備わっていない、と言えばいいだろうか。私が浴びてきた理不尽な“怒り”は、私に対して“理不尽かつ無根拠な怒りは他人に不快をもたらすものでしかない”と思わせるには十分な量(感情は今のところ数値化できるような代物ではないけれど)だった。
 それから私は“怒り”のようなものが内側から沸き起こってくる度に
「それは正当な怒りか?」
「それは根拠に基づいた怒りなのか?」
を自らに問いかけるようになった。だけど大体の場合、私はそれらに対して「No」と答えるしかない。
そうして“怒りと処理するのは不適当と判断された感情”に、他のより適当な感情の名前を貼り付けてやる作業をする。それは例えば「嫉妬」だったり「悲哀」だったりそれ以外のものだったりして、少なくとも“怒り”とは呼べなくなる。
 何かに対し、足音を立てて怒る自分の姿を客観視してみる。するとその源泉が“嫉妬”であることが分かってしまう。それが正当なものでも根拠に基づいたものでもない、もっと本能的な恥ずべき感情だと気が付いてしまう。
そんなことをしていたら、自分が怒ることすら怖くなってしまった。自分の中から沸き起こった“怒り”のような感情に、“怒り”と名付ける自信をなくしてしまっていた。

 もちろん、私はそもそも怒られることが怖い。だけどそれが理にかなっていて正当なものならば、その怒りを受け入れて反省することしか出来ない。何故なら私に非があるからだ。
でも、それに当てはまらないような理不尽なものを、私はもう受け入れたくない。受け入れたくないくらいに、怖い。それが私を反省させ、成長に導くものではなく、ただただ私を疲弊させるだけのものであるということを、うんざりするほど味わってきたからだ。


 そうして私の“怒り”恐怖症は、今でも治ろうとする兆候をちらりとも現さないまま、私の心の奥底に深く根を張り居座り続けている。