生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

書き物に詰まりまくりすてぃで頭が痛いので息抜き

 書き物に行き詰まっているので、ブログで休憩する。

 思うに、自分は無条件に人を信じすぎていて/期待しすぎていた。だからその分、勝手に裏切られたように感じてしまっていた。単純に関わる人間の数が減ったから気が付いていないだけで、もしかしたら今でもそのような振る舞いをしてしまっているかもしれない。
 それはともかく私には、昔からそういう部分があるらしい。

 何が原因かは分からない。両親から受け続け、途中からは片親から今に至るまで受け続けている、薄っぺらい善意の皮を被った暴力的な抑圧が原因なのかもしれない。
ただ単に、自分が馬鹿だからというだけかもしれない。
分からない。

 けれど今の私は人を信じるのも人に対して期待するのも怖い。出来ればどちらもしたくない。
勝手に信じたり期待したりして、それをまた裏切られることを思うと頭がキリキリと痛む。
もはや人と関わるのすら怖いくらいだ。

 生身の人間と会う。
声を出そうとする。出そうとしてはいるのだ。それでも思った通りの声量では出てくれない。
異性より声が大きかった部活動時代からは考えられないくらいの声しか出ない。周りの同性ほどの声量すら出せない。
声を出そうとすると、喉がカラカラに乾く。舌からは水分が蒸発していく。肺から押し出した空気は満足に声帯を震わせることも出来ないまま、掠れた声と共に吐き出される。上手く回らない口を通り抜けていく。
人と直接話すことが、前にも増して恐ろしくなってしまった。
 今の発言は失敗ではなかったろうか、相手の言葉に対して自然に返せていたろうか、今の相手の言葉を、相手の意図していない意味で汲み取ってしまってはいないだろうか。
口語によるコミュニケーションは良くも悪くも推敲が出来ない。脳味噌の中で考えることの出来る時間も限られている。だから、怖い。
そして口語によるコミュニケーションは、文字によるそれ以上に“相手への信頼と期待”に支えられていると私は考えている。この相手ならばこんな言葉を投げかけても上手くキャッチして、自分が取りやすいように投げ返してくれるだろう、という信頼と期待。怖い。怖い。

 信頼と期待が怖いのならば、もういっそのこと独りきりになってしまえばいいだろう、と自分でも思う。それが最善策であることも理解している。
だけど私には、修理が出来ないくらいの損傷を受けた感覚器官を持っているとはいえ、未だに他者を感じ取ることのできる/できてしまう感覚器官がいくつか残っている。
 それは何を意味するか。つまり、他者が他者との関わりとの中で幸せ(あるいは不幸せ)を掴み取っている様を感じながら生きていく以外の道がないということで、そこからは逃げられないということだ。自分の孤独が、惨めなくらいに浮き彫りになるということだ。

 問題は、その矛盾だ。
私は他者への信頼と期待に恐怖心を抱いている。
一方で私は他者との関わりが途絶えることを受け入れられないでいる。

 私のように生きるのが下手くそな人間は、他人と関わることで傷付くのが怖い。それなのに、独りきりになることが出来ないという未熟さを良い歳して抱えているのだ。
どうすればどちらかを“治療/消去”することが出来るのだろうか。成人して何年か経てば自ずと治っていくものなのではないか?と思っていたのに、治る気配は全くない。


 私は生身の───その中でも特にあまり関わったことのない───人間と対面する度に、(相手に期待しすぎてはいないか、相手を信じすぎてはいないか)と自分に問いかけながら、おそるおそる肺から空気を押し出して喉を震わせるのだ。