生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

書いている。少しずつだけど、書いている。

 四万温泉でのソロ湯治で部屋に引きこもって進捗をどうにかする合宿をしている。


 書いている話の性質と、今いる環境は、私に対して私自身について普段より澄んだ状態で考えさせる。
 そうして気が付いたことがある。私は基本的にひとりを好む。穏やかな静寂と、質と育ちのいい爆音を好む。誰かと共にいることを、ほとんどの場合負担に感じる。ひとりきりでいる時か、限られた一握りの友人/知人と共にいる時に、私は安らぎを感じる。
 私はよく立ち止まりたくなる。気になるお店、木々、花々、ヒト以外の動物等々……に気を取られるからだ。立ち止まりたくなった時でも誰かと一緒にいる場合は立ち止まらない/立ち止まれない。私個人の思考の散らかりに、他人を巻き込む権利を私は有していないから。
 私は多分、他人と関わることに向いていない。愛想笑いをする度に、顔の筋肉がつる。おべっかを使う度に、肺の空気が澱むのを感じる。
 そして私は、私が他人から評価されるような何かを有していないことを自覚しているからこそ、他人と関わる度に恥ずかしく思う。
 そこまで考えていたら、あれ?私、ひとりでいる方が幸せなんじゃないか?と思った。

 となると、次に別の疑問が浮上してきた。「ならば、この胸を通り抜けていく寂しさのような冷たい風は何なのか?」と。
違う、寂しい訳じゃない、と、答えたかった。この口は、この利き手の親指は、そう答えるための準備をしていた。
だけど本当にそうなのか?と考えると、やっぱり疑問は残ってしまう。
 その折に、このツイートが目に入った。
https://twitter.com/557dg4/status/1056860250358218753?s=09
「これだったのか」と、納得してしまった。
私は歪んでいる。歪んだ環境で育てられた結果、歪んでしまっている。だから私は私を好く人間のことを理解できないし、私を嫌う/決して好かないだろう人間のことを好いてしまう。
 結果として私は、自分のことを好かない人間を好いてしまい、自分のことを好く人間を拒絶するようになったのだろう。
 どうして私は、ここまで歪みきってもなお、生きているのだろうか。死ねないのだろうか。このまま生き続けていても幸せになれないような歪み方をしてしまっているのに。

 私は今、物を書いている。このブログのことじゃない。小説を、書いている。書きたいことを書きたいように書いている。はじめて書く小説を、はじめて完成させようとしているからか、筆は重く、なかなか書き進められない。だけどゴールは見えてきた。歩みは遅くとも、このまま書き進めさえすればそこに辿り着ける、と思えるようなゴールは。
 細々とした描写や展開がどう転ぶかは分からない。だってプロットなんて作っていないのだもの。だけど大まかに/全体として、今書いている物が“特定の誰か個人に向けたラブレター”になってしまいそうな予感がしている。自分のことを好くはずがない誰かへ向けた、受け取り拒否で家に帰ってきそうな、手紙のような話になりそうだ。

 思考が研ぎ澄まされるこの環境で、いつ書き終えられるかは分からなくとも、どうにかゴールが見えてきた。それだけでもひとりで四万温泉に来た甲斐があると思う。
その性質上自分で定めていた、定演という期日に間に合うかは怪しくなってきた。きっと間に合わないだろう。それでも、期日を超えたとしても、私は私を救うためにも今書いている物を書き上げたいと思うのだ。