生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

“嘘っぱち”や“不誠実”に対して、誠実であらねばならないらしい

 これもやっぱり、私が“普通”より要領が悪い、というだけの話なのだろうとは思う。


 「誠実に生きるべきだ」と思いながら生きてきた。少し不誠実なことをする度に、後ろめたさを感じてきた。みんな(これもまた“普通”と同じくらいに曖昧な主語なのだけれど)がみんな、当然の常識として誠実に生きているのだと思っていて、ならば私もそうあるべきだと考えた。

 だけどそんなものは全て幻想に過ぎなくて、みんな、曖昧な“みんな”は、誠実なように振る舞って/装って不誠実に都合良く生きている。そのことに気が付いたのは、この世に生まれてからだいぶ経った、成人年齢すら超えた歳になってからのことだった。
私の周りの大人は全員、
「誠実に生きろ」と、私が小さい頃から私に対して言い続けてきた。
だから私はいつも誠実に、それでも嫉妬が閾値が達した時には形のない誰かに向けて心の中で謝って不誠実を働いた。不誠実は悪いこと、誠実ではないことをしてごめんなさい、と。
 最近気が付いたことがある。人は不誠実を平気で働く。後ろめたいことなど何一つ無いような顔をして、誠実に“不誠実に”生きている。そしてそれは不文律でもあるらしい。私のように要領の悪い人間はその不文律に長らく気が付くことができなかった、というだけのことらしい。
 何というお笑い種だ、私は全てに対して誠実に生きているつもりでいて、不誠実に対しては不誠実に生きていたのだ。
 誠実に生きてさえいれば報われるなんて幻想だ。現実は不誠実な人間が報われるように出来ている。

 三人以上で話していて、私が言葉を発している時に、会話の輪の中にいたあるひとりの人間が私の言葉を遮って、嘘を吐いた。
 本人に確認した訳ではないからこれは憶測に過ぎないが、多分その人間は、私がその先を話すと輪の中での自身の立場が揺らぐと感じたのだろう。そのために、私の立場を揺らがせてまで嘘を吐いたのだろう。
 その人間が私の言葉を遮ってまで全くの嘘っぱちを発している間、流石に私は唖然としていた。
あまりにも自然に、何の躊躇い/後ろ暗さなどなく不誠実を働くその姿と、それが許される世界に、価値観に。

 最近だと他にもあった。
ある人間は言った、
「○曜日までには(仕事を)仕上げます」と。だから私はそれを信じてスケジュールを組んだ。もしその期日を(常識的な)数日だけ遅れてこられても対応出来るように準備していた。
 だけど実際にはどうだ?
その人間は、二倍以上の時間を使いながらもなお、仕事を2/3程度しか終わらせていなかった。自ら買って出て期日まで設定したのにもかかわらず、だ。
 忙しいなら忙しいで、はじめからそんな無理な計画を立てたり言い出したりしなければいい話で。1人分の仕事の欠けくらい、他の人間が補うことなどそう難しい話でもない。
はじめから出来ないことでも出来るだなんて宣言されなければそれなりの対応をすることが出来た。
そして私は改めて学んだ、出来ないことは出来ないと言って他人に頼らなければ、頼るよりも多大な心労と迷惑を他人にかけることになるのだ、と。自分の能力を過信してはいけないのだ、と。

 ここ数週間で、人付き合いの少ない私が経験しただけでもこれだけの不誠実がある。いや、正確には/世間一般には不誠実ではないのかもしれないけれど、私はそれらを不誠実だと思うことしか出来なかったし、これを書いている今でも出来そうにない。
 結局のところ、いかに誠実な振りを出来るかどうか、なのだ。そこに実際に“誠実”が伴う必要はなく、不誠実でも誠実な振りを出来さえすれば、世間はそれを“誠実”だと認識する。
逆に言うと、いくらそこに“誠実”が伴っていても、それが他人の目から誠実に見えていなければそれは“誠実”だとは認識されない。

 きっとこの先、どれくらい先かは分からないけどこの先、私のように誠実に“不誠実をはたらくこと”が出来ない人間は様々な理由や言い掛かりを付けられて排除されるのだろう。
その方が世界は潤滑に回っていく。摩擦係数はなるだけ小さくした方がいい。“不誠実”に対して不誠実な人間は、排除した方がいい。

 既に世界にはその土台が出来ている。あとはどう積み上げていくか、の問題だ。