生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

いいえ。ないです。

 普通なら、はい。とかあります。とか、そうやって答えられるんだろうな、と。


 先生と話をしました。人間らしい会話をしたのは随分久し振りだったように思います。
だってほら、まずこの性別の社会は、いかに“機械的”な応答が出来るかどうかでその地位が査定されるじゃないですか。代表的なのは
「かわいい」とかでしょうか。この社会の中でそれを言われた場合、“機械的”に“感情を伴ったような反応”を返さなければなりません。私自身あまりそれを言われるような人間でもないので、踏んだ場数も少ないのですが、とにかく模範解答があるようだ、ということは分かりました。謙遜で終わらせてはいけないようです。
それを言った相手───特に女性に多く見られる気がしますが───は、往々にしてこういう反応を求めているらしいです、“謙遜した上で、「○○(相手)の方がかわいいよ」”という反応を。
 一言いいですか、くだらないです。くっっっっだらない。金箔よりも薄っぺらくて、それをわざわざ音にして発する意味が分からない。
 私は話すことが苦手なので余計にそう思います。
私は話すように話せません。
代わりに“書くように”話してしまいます。私は会話をする時、いちいち頭の中で文字に起こして、推敲と校正を時間の許す限り/自分が満足できるまで行ってから、完成稿を声に出します。だから、私は会話を素早く回されると脳内でバグが発生します。
 そしてその、推敲されて校正もされた完成稿に前述の薄っぺらな何かが残っているか?となると、バグが発生していない限りは残っていません、としか返せないのです。


 私が属する性別の社会はそうやって回っています。だから私は昨日先生に
「気を許せる友人はいる?」と聞かれた時に
「いいえ」「今はもう、いないです」としか答えられませんでした。私と一緒に新たな世界を見に行ってくれるような友人は、私にはもういなくなってしまいました。「死んだ訳ではないのです」「ただの音楽性の違い、というやつです」
「そっか」
そしてさらにこうも聞かれました。
「幸福を感じたことはある?」と。
ノータイムで「ないです」と答えました。ないです。 そしてさらに、
「愛を感じたことは?」とも聞かれました。
さっきよりも時間を置かずに答えました。「ないです。一度たりとも」。
「そっか、そっかぁ……」
先生はそれらの返答に対して説教臭い何かを返すことはしませんでした。
代わりに愛の話をしてくれました。私には分からないけど、先生にはなんとなく分かっているという、愛の話を。私が
「家族愛すら知りません」と言ったら、先生は
「せやなぁ、家族“恋”なんてないもんなぁ」と前置きしてから話してくれました。ここでは詳細は割愛しますが、そこには決して私のような部外者には到底理解できない“愛”が確かに存在していました。

 生きてさえいれば、それらに対してもはい。あります。と答えられるようになるのでしょうか?資本主義を拗らせた上で文字に傾倒してしまった私にも、その可能性はあるのでしょうか?


 100点中10点の父親の発する、だけど当事者たちに対して直接言う勇気はないらしい、世の中/私に対する不平不満の独り言から逃れられない、という現状から、それとは真反対の方角に存在するように思える“幸せや愛の感じられる状況”に身を置くことはできるのでしょうか?
 これ以外にも浮かんでくる、数々の疑問に対して自分自身が納得してはい。あります。と答えられた時はじめて、私は生きたいと思えるような気がします。