生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

あなたの死亡動機は何ですか?

 努力/根性が足りない、という言葉で片付けられてきた。例えそれが、自分にはどうしようもない、どうにかしようとしてもどうにもできない"環境"に起因するものであっても。
そこから抜け出そうと努力しなかったことが/"みんな"が耐えていること(?)に耐えるだけの根性がなかったことが悪いのだ、と、片付けられてきて、片付けられている。


 「生きてさえいればいいことがあるよ」と、ある人は私に言った。だけどそれは、何かを持っている人の言い分であり、何も持っていない自分には適用されない言葉だった。
 自己PR、というものがある。何かを持っている人が、自分の持っているものをアピールする行為であり、近年の就職活動においては必ずと言っていいほど聞かれることらしい。
自分には出来ないことだ、と思う。むしろ、自分にないものを/自分がどれほどまで"何もない"人間であるかということを伝える、「逆自己PR」とでも呼ぶべき代物しか絞り出せない。
 私には何もありません、ということしかアピールできない。

 「生きてさえいればいいことがあるよ」という言葉を素直/額面通りに受け入れるには、そもそもそれを言われた側に一定の土台があらねばならない。例えば技能とか、資産とか、魅力とか、健康な肉体・精神とか。そういった、一朝一夕ではどうにもならないような、長年かけて培われるような。
私がその言葉を素直に受け入れることが出来ないのにはそういう理由もある。私にはそれを受け入れるための技能も資産も魅力も健康もない。
 どうしてそこまで土台にこだわるのか?といえば、その土台は将来時点で利益を得るために必要な元手になるからだ。人は、それ自身の持つ技能/資産/魅力/健康という元手をもって未来を切り開く―――もっと平易に言い換えると、"いいこと"を発生させる。だから、元手がない者には当然、未来もない。

 だから私には、"いいこと"が起きる未来が見えない。想像すら出来ない。もっと言うと、自分の抱える無形の負債が将来引き起こすであろう"わるいこと"が見えて、想像できる。どんなに足掻いて石を積み上げようとも、不意に自分の持つ負債がやってきて、無慈悲にそれを崩す、賽の河原が見える。
今までがそうであったのに、これからはそうならない、なんて無責任な希望を持てない。無責任に希望を抱いておいて、それが叶わなかったときの苦痛を、私はすでに知っている。不出来な脳味噌がそれを忘れていようとも、この身体はしっかりと覚えている。刻み込まれている。


 「生きていてもいいことなんてない」
私はそう返答すると同時に、発言主体である自分自身にも言い聞かせる。
予め自分から提出された「逆自己PRが記載された紙」を手元に置きながら、たしかにこのまま生きていてもいいことなんて起きないことを、向かいに座る自分に向かって諭すように言い渡す。言い聞かせる。
 そうやって、自分に死ぬ以外の道はないことを再確認させる。そうしないと、臆病な自分はまたしくじってしまうだろうから。