生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

鼓膜も頭も割れそうになる

 うるさい、うるさい、うるさい。


 前はそんなこと全然なかったのに、この頃他人の声───とりわけ私に向けられていない、私が聞く意味もないような───を、うるさく感じるようになった。頭に響く、じゃあまだ生ぬるい。頭を刺される/殴られるような痛みが、声のする限り断続的に続く。


 例えば、壇上で講演している人がいるとする。
私はそれを聴くために来ている訳だから、その声は私にとって聴く意味がある。
でも、私以外の聴衆がざわついていた時、その声は私に襲いかかり、私にとって意味のない不協和音が、この鼓膜と脳味噌を揺らす。ふらふらと眩暈がしてくる程だ。

 私には理解できない。
どうしてそんな、意味のないことをよりによってこの瞬間にやり取りするのか。
どうして壇上で講演者が話している最中に、仲間内で行う(と聞こえてきた)忘年会の打ち合わせを始めるのか。
どうして黙ることが出来ないのか/あるいは黙ろうとしないのか。

 私にとって話すことにより人と意思疎通するのが難しいことと同様に、
彼(女)らにとって話すことにより人と意思疎通しないことは難しいことなのだろうか。
別の世界の生き物のようだ。


 そんなこともあって、近頃私は意識して耳を塞ぐようになった。
Bluetoothイヤホンの余力がある限りは音楽を流して外の音をシャットアウトして、電池が切れたらそのまま着けっぱなしにしておいて耳栓として使う。
剥き出しの鼓膜には、世界の音はあまりにも刺激的に過ぎる。丸裸のままにして放っておくと、耳が聞こえなくなるのではないか、とすら思う。


 同様に、私が好きな音響設備を備えているような、音響にこだわっている映画館で、特に普段自分が観ないジャンルの映画を観に行った時において、思うことがある。
 音響にこだわっているため、そこでは前説のようなスタイルで従業員が念押しで「お静かに」と言うのだが、映画が始まろうが黙らない人々がいる。
それが感情の発露なら良い。笑い、泣くのは作品に対するリスペクトの表れだと思うから。
でもどうしてそこで雑談を始めてしまうのか、疑問に思えて仕方がないのだ。
自分は音を楽しみにしてお金を払ってそこにいるのに、作品の音に向けて耳を澄ませている時にどうして関係無い不快な音に鼓膜が震わされなければならないのか。どうして、どうして?と、思う。
普段観ているようなジャンルで適用されていた秩序を恋しいとすら思う。そして作品自体に罪はないのに、その作品に対する印象が悪くなる。
 私の心が狭いのだろうか。寛容ではない、“普通”ではない、と、言われて責められるのだろうか。


 この世界は私にとっては速すぎて、雑音が多すぎて、生きているだけで身体に負担がかかってくる。
 本当にどうして、私はあの瞬間に逝けなかったのだろうか。