生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

紅白不審者おじさんの恩恵なのかは知らないが

 新しく処方された薬が効いてるのかも知れない。

 

 頭が冴えて、気付きを得た。何かしらのボーナスタイムのように、今までどん詰まっていたことの理由が分かってきた。なるほど、なるほど。頭がバチバチに活性化している。アレ、飲んだの寝る前の睡眠導入剤だよな……。

 

 私が恋というもの、恋人という存在、それに関わるあれこれを神聖視している理由。それが長らく謎だった。訳も分からずそれらを崇めていた。

多分、周りと同調するためにはそれらを崇める姿勢を見せることが一番手っ取り早くて楽だ、と思っていたからだと思う。実際、一部の環境において、その姿勢は効果的だった。

あくまで一部の、という修飾語はつくけれど。

 

 だけど分かった。前にも同じように気が付いて、ここに書いていて、書いたこと自体忘れているのかもしれないけれど、1度目の気付きではなく、何度目かの気付きなのかもしれないけれど、分かった。うん、分かった、と思う。

 

 私が恋を神聖視する理由。それは少なくとも

「自分と相手が互いに好意的な感情を抱いていること」が保証された間柄だ(と私が思っている)からだ。

 “自ら知人を遊びに誘う勇気が出ない自分”を認識してはいた。そこまでは分かっていた。だけどそこまで、だ。

誘って断られたらどうしよう(別の人を誘えばいいだけの話なのだが、その“別の人”を探すのすら億劫になっている)とか、

そもそも私に誘う資格があるのだろうかとか、

そういう不安を解消してくれそうな関係性としての“恋人”に期待している自分がいた。

 きっと恋人がいたならば、誘って断られたとしてもそれは何か理由があって、互いが恋人同士である限りにおいては「嫌いだから」という理由ではないと思えるだろうし、

恋人同士であるならば、相手は自分を好いてくれている訳だから、誘ってもいいと思えるだろう。

 そんな幻想が、私の中の“恋”に対する印象を固めている。

 

 「友達以上恋人未満」という言葉があるならば、きっと恋人は友達よりも良質な関係性なのだろうという幻想の下、「友達がいなくても恋人さえいれば救われるはずだ」という考えに支配されている自分を自覚する。

 だけど振られるのが怖くて、振られた時の悲しみを知っているからこそまた味わうのが嫌で、私は絶対に振り向かれることのない恋をするようになったのだろう。これは前にも書いた記憶がある。そこに繋がる。

 

 こんなどうしようもない私に居場所をくれる何かとして“恋”を慕いながら、関係性が破綻することを恐れて、

喋ったこともない/それどころかその人の視界に入ったこともない、江口に対して恋をしているのだ。

と、自分に言い聞かせて、

「じゃあ恋人が出来ないのも仕方がないね」と、無理矢理にでも結論づけようとしている自分の幼稚さが嫌になる。そんなのが本音ではないことなんて他ならぬ自分が理解しているから余計に、嫌になる。

 

 

 ここまで気付けたのはいいのだけれど、私はこの先どうすればいいのかの答えは見付からない。先は長そうだ。