生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

早く、確固としたアイデンティティを確立しなければならない、という焦燥感に駆られていた

 きっと、アイデンティティは個性であると同時に自我でもあるのだ。

 

 

 「ヒトはモラトリアムを通じてアイデンティティを確立し、大人になる」

そんなことを教わったような記憶がある。自分で自分の記憶力を信じられないから記憶違いかもしれないけど、とにかくそんな記憶がある。

 アイデンティティを確立したヒトは大人になる。アイデンティティを確立しなければ大人になれない。

 自分で言うのも何だけど、その頃は今以上に馬鹿真面目に講義を聴いていたものだから、

(なるほど、じゃあアイデンティティを確立せねばなるまい)

(でもまぁ順当に生きていれば確立出来るだろう)と、簡単に考えていた。

 

 でも、前に記事に書いたように、私は

“私の中に自分がないこと”に気が付いてしまった。対等な立場の人と話すことが苦手なあまり、私は人と話さないでアイデンティティを確立しようとしていた。“自我”と言うくらいなんだから、自分の内から勝手に芽生えるものなんだろう、と考えていた。

 だけどもそれは間違いで、アイデンティティ、という言葉はident、つまり識別を基に成り立っていて。

他人との関わりの中で他者と自分を比較検討し、結果として見えてきた

“他人との違い/他人と自分を識別する何か”を見つけなければ確立出来ない代物だった。

 

 そういった個性を、私は自覚できないままでいる。他の人から見れば

「○○○の部分で他と異なっている」と分かるのだろう。だけど私は、比較する他者との関わりを完全に失ってしまったが故に、その“異なっている部分”、つまり個性が分からないでいる。

そして自身の個性を理解できていないからこそ、私には自我がないままなのだと思う。

 

 私はこの、“社会”というシステム・社会を構築することで成り立っている人“間”のことを甘く見積もっていた。

私はヒトであり、人並み───これも社会特有の概念なのだろうが───に生きようとする限り、いくら引きこもろう/感覚を遮断しようとも、結局のところ“社会”からは逃れられないように出来ていることに気が付いた。

 今の社会は、その支配下にあるヒトに対して

「人ではなく人間であれ」と要求していて、人間を放棄することを許してはくれない。すばらしい新世界の中で描かれていた、外の原始的なヒトたちのままではいさせてくれない。

 

 そうやって悶々と考えている内に、“社会”という概念が恐ろしく感じられるようになってきた。どんな人間でも、人“間”である限り、社会からは逃れられないことに絶望した。

 今いる社会は、そこに属する人々に対して“アイデンティティを確立し、大人になること”を要求する。

一方で人間は、“大人になるために必要なアイデンティティの確立の拠”を社会に求める。

 “社会”は人がいなければ成り立たず、人“間”は社会がなければ成り立たないようになった。それらは相互に依存することで成り立っている。

 

 じゃあ、どこかで転んでしまって社会から断絶されてしまった人間はどうなるか?

識別する他の個体がいないがために、人間は、それ単体では人間でいられないようになっている。自我を失い、人間から人に転落する。それでも、社会の中で生まれたために、ヒトにまでは転落しない。転落“できない”と言うべきか。

 人間から転落した人は、開き直って野生のヒトになることすら出来ないままに、人間とヒトとの間の曖昧な境界を彷徨い続ける羽目になるのだ。

 

 

 私は大人にも、人間にもなれなかった。

ヒトにすらなれないまま、人間社会の中で人として生きなければならない、という今の状況は、生殺しのまま放置されているように思えてならない。