生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

最近“わかり”の波が押し寄せてくる

 処方された薬が合っているのかもしれない。

 

 

 人と遊びたい/人に頼りたいといった願望を、人と関わらなくなってからよく抱くようになった。じゃあ遊べば/頼ればいいじゃないか、と、自分に対して思うのだけれど、それと同時になかなか実現出来そうにない自分もいる。

何でだろうかとうんうん考えていて、わかりを得た。

 

 要するに私は、誰か特定の、“友情”という貨幣の伴わない曖昧な───私には到底理解し得ない───関係で結ばれているただひとりの個人に対して、「遊ぼう」だの「話を聞いてほしい」だの言って失敗するのが怖いだけなのだ。

 それらを相手が受け取らずに避けることや、それらが相手に嫌がられることを恐れて行動に移せないだけ。

ビジネス上の関係なら単純な損得勘定で動けるからまだ分かりやすい。でもそれ以外は分からない。分からないからこそ、失敗するのが怖くて、失敗した時のことを考えてしまうのだ。

 

 私がこれまで生きてきて身に付けた“失敗をカバーする方法”というのは、転勤や退会などによる、“コミュニティとの断絶”のみであった。コミュニティとの関わりを捨てて、失敗に向き合うことから逃げ続けてきた。相手方ともう関わらなければいいとして、断絶で失敗を帳消しにしてきた。

 根本的な解決になっていない上に、結局解決させないままに放っておくために、失敗は問題として残る。そしてその諸問題は、後からでは解決できないほどに肥大化する。

 

 失敗を処理するのが苦手だから、せめて失敗しないように、と生きていても、要領が悪いからやはり失敗してしまう。

にもかかわらず、失敗した後の修復方法が分からないために、失敗した途端に逃げてしまう。失敗から目を逸らす。

 

 

 そうしている内に、私は決して失敗出来ない/失敗=逃亡という考えにしか至れない身体になってしまった。