生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

誰彼構わず薦めはしない

 他人に自分の好きなものを薦める、というのは、結構勇気のいる、思い切った行為だと思う。

 

 

 私には趣味がある。読書や映画鑑賞や、あとたまに江口とか。最後のはまぁ冗談として。

読書や映画鑑賞については、何回も読んだり観たりするくらいに入れ込む作品、というものがある。

 でも、私はそれらの好きな作品を、誰彼構わず薦めたくはないと思うのだ。

 

 何故か。

私は、書籍や映画に限らず、全ての“人が触れるコンテンツ”というのは“居場所”を形作るものだと思うのだ。

私が例えやすいところで言うと、書籍や映画というコンテンツは、

まず“そもそもそれに触れようと思うような価値観を持っているのかどうか”というところで篩にかけられて、

次に“実際それに触れるかどうか”というところで前の段階よりも細かい目の篩にかけられる。

この最後の篩を通過してようやく、コンテンツの輪の中に入ることが出来る、という構造になっている。

それらの篩にかけられた結果、“同じ作品を好くような人々”という集団が構築される。私は、そういう篩にかけられた後の“自分自身と同じ作品を好く人々”に対して、一定の信頼を置いているのだ。

 だからこそ、私は人に自分の好きな何かを薦める、というのはとても勇気のいる行為だと思っていて、実際、私から無差別に作品を薦めるようなことはしない。無差別に薦める作品は、自分にとって「別の価値観を持つ人間の侵入を許しても別に構わない」と思える程度のものばかりだ。

 

 想像してみてほしい。自分の好きな作品を、粗雑に扱われ、消費されたとしたら。安易に「わかる」だなんて言われたとしたら。

 自分が好きで、守り抜いてきた、“同じ作品を好く人々の集う場”を踏み荒らされた気分にならないか?少なくとも私はなる。そんな気分になるのは嫌だから、私はわかってくれそうな人には必死で宣伝をするし、それ以外の人には形式的な宣伝しかしない。

 

 

 それらの作品を提供してくれる方々にとっては、そんな態度はありがた迷惑でしかないのだろうけど、消費する側の私は、作品を大事に思うが故に、好き勝手に荒らされたくないと思う。だから、作品をひとつ薦めるだけでも慎重にならざるを得ないのだ。

 自分の好きな作品を薦める、という行為は、

「自分はこういう価値観を持っています(だからこの作品を好いています)」という意思の表明に他ならず、心の一部をさらけ出すことだと私は思う。